歴史をたどる~豊かな機構風土が育む、極上の伝統工芸品~
城下町の興り
戊辰戦争で官軍の攻撃によって傷ついた会津城 (1874年に取り壊された)
美しい山々の稜線が四方を囲む会津盆地の南東に位置し、東に猪苗代湖、西に阿賀川を有し、江戸時代には会津藩の城下町として栄えた会津若松。
第二次世界大戦で空襲に遭わなかったこの町は、明治や大正時代の歴史ある建物が、あちこちに何気なく存在する。
その歴史は、1384年に葦名直盛によって黒川城(鶴ヶ城)が築城され、葦名氏の拠点として発展したことに始まる。
その後、伊達氏によって葦名氏は滅ぼされ、伊達氏の領地となったが、豊臣秀吉の命で蒲生氏郷が会津領主として黒川城に入った。地名は氏郷の生まれ故郷にちなんで若松と改められ、楽市楽座の導入や産業振興への努力など、氏郷によって会津若松の基礎が築かれたのである。
氏郷の死後は、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明など領主が変遷したが、1643年に徳川秀忠の四男であった保科正之が入封し、幕府から松平姓を賜り会津松平の祖となった。
それから徳川幕府のご親藩として、明治維新を迎えるのである。
※楽市楽座 織田信長が行った経済政策。定められた地区では、商人が税を納めず自由に商売ができた。
昭和44年に復元された天守閣(※詳細は見所へ)
なぜ会津には伝統工芸品が多いのか
会津若松は奥州への玄関口である。米沢と結ぶ会津街道をはじめ、二本松街道、白河街道、会津西街道(下野街道)、越後街道の、いわゆる会津五街道が発達し、各地と米や工芸品などの流通が盛んに行なわれた。
会津には会津漆器や会津桐、絵蝋燭など多くの日本を代表する工芸品が多いが、その基礎を築いたのが前述の蒲生氏郷である。
氏郷は、米づくりが経済の根幹となっていた近代以前において、山間部が多く不利な立地であった会津に、近江から職人たちを従えて入府し、その技を人々に伝えて重要な藩の財源としたのである。
その後、江戸時代に入るとさらに藩政改革の一環として、これら工芸品は保護・奨励され、大きく発展した。特に、正徳・享保期(1711~36年)の頃になると、財政難が著しくなり、家老・田中玄宰(たなかはるなか)の主導で殖産振興が図られた。
会津漆器においては京都より職人を招き、消粉蒔絵の技法や、金粉・金箔の製造法を学び取り入れた。そして、その品質と芸術性を飛躍的に向上させ、会津は京都・金沢に並ぶ金箔の三大産地の一つとなったのである。
※消粉蒔絵 金銀の箔をすって粉にしたもののうち、最も細かな粉を消粉といい、これを用いた蒔絵を消粉蒔絵という。
1.会津の郷土玩具、赤べこ(番匠)
2.起き上がり小法師を一つづつ作る
(山田民芸工房)
3.漆器に繊細な絵を描く蒔絵師
4.艶やかで品のある会津漆器(3、4ともに鈴善漆器問屋)
今なお愛されている郷土の誇り
漆器の重要な素材はもちろん“漆”であるが、漆はその樹液を器や建造物、武器武具などの装飾として利用される他、実を絞って採った固い脂肪(蝋)が蝋燭として生産され、電気のない時代の灯りとして大変珍重された。
そこへ、さらに繊細な花の絵を施すことで付加価値が加わり、近年まで絵蝋燭は一般庶民にはとても手の届かない高価な品だった。その製法は、藩外へ漏れないよう城内で製造させていたほどであったとういから、その貴重さが伺える。
そして会津人がこよなく愛する酒。会津若松市内だけでも10以上の蔵元が今も存在している。
酒造りもまた、豊富な伏流水と盆地特有の寒暖の差という、酒造りに適した自然の恵みとともに、会津藩の藩政改革の一環として発展してきた。
会津杜氏たちは、農作業のない冬場に蔵元へ住み込み、今も酒造りに励んでいる。
東北最古の焼き物「会津本郷焼」や、郷土の玩具「赤べこ」「起き上がり小法師」など今なお愛されている工芸品が、今回ご紹介した以外にも驚くほどたくさん存在する会津。
会津の人たちは自らを頑固だという。
その頑固で実直な会津人気質が、厳しい環境や目まぐるしく変化する世情に流されることなく、一途なまでに伝統の技を守り伝えてきたのではないだろうか。
1.末廣酒造の堂々たる暖簾
2.蝋燭を手で磨く若き10代目
3.櫂入れ作業の風景(名倉酒造)
4.すべて手描きの絵蝋燭
(2、4ほしばん絵蝋燭店)
| ■取材協力 | 会津若松市観光公社/会津若松観光物産協会/名倉山酒造(株) 末廣酒造(株)/鈴善漆器問屋/ほしばん絵ろうそく店/山田民芸工房 |
