実際に「歩いて」「走って」集めた『人力』旧街道紹介サイト
白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。約60万㎡の大規模な城郭が完成した。 ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。 奥州の玄関口に位置する白河藩は、伊達など、奥州の外様大名に対する備えとされていたため、丹羽氏以降は親藩・譜代大名が藩主を務め、240年の間に丹羽氏を含め7家21代の大名が治めている。歴代藩主の中には老中首座となって寛政の改革を断行した松平定信、同じく老中として幕末の混乱期に外国公使との交渉役を務めた阿部正外が有名だ。その正外は攘夷論者の策謀により老中職を免ぜられ、蟄居する事になるが、跡を継いだ正静が左遷的国替えによって棚倉に移ると、白河は幕府領となり、二本松藩主の丹羽氏が城郭守備を命じられ、戊辰戦争を迎える。戊辰戦争では奥州諸藩の拠点となり、会津、仙台、棚倉、二本松等の兵が薩摩、長州、大垣等の西軍と戦うが、数日の激戦の後落城、城は兵火にかかって焼失してしまう。 このように、白河宿は幕府の道中奉行が管轄する奥州街道の終着地であるが、老中・松平定信の居城であった小峰城の城下町としても発展し賑わった宿場であった。
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白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。約60万㎡の大規模な城郭が完成した。 ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。 奥州の玄関口に位置する白河藩は、伊達など、奥州の外様大名に対する備えとされていたため、丹羽氏以降は親藩・譜代大名が藩主を務め、240年の間に丹羽氏を含め7家21代の大名が治めている。歴代藩主の中には老中首座となって寛政の改革を断行した松平定信、同じく老中として幕末の混乱期に外国公使との交渉役を務めた阿部正外が有名だ。その正外は攘夷論者の策謀により老中職を免ぜられ、蟄居する事になるが、跡を継いだ正静が左遷的国替えによって棚倉に移ると、白河は幕府領となり、二本松藩主の丹羽氏が城郭守備を命じられ、戊辰戦争を迎える。戊辰戦争では奥州諸藩の拠点となり、会津、仙台、棚倉、二本松等の兵が薩摩、長州、大垣等の西軍と戦うが、数日の激戦の後落城、城は兵火にかかって焼失してしまう。 このように、白河宿は幕府の道中奉行が管轄する奥州街道の終着地であるが、老中・松平定信の居城であった小峰城の城下町としても発展し賑わった宿場であった。
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