歴史をたどる~飛鳥文化を伝える世界遺産の里~

聖徳太子が拓いた地

斑鳩の雪景色

斑鳩の雪景色

中宮寺

中宮寺
聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の発願によって創建されたという

国内初の世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」をはじめ、藤ノ木古墳など国宝や重要文化財が200件以上ある奈良県生駒郡斑鳩町。

斑鳩の地名の由来は、聖徳太子が宮を造った夢殿辺りに太く黄色い口ばしを持つイカルという鳥が群れをなしていたことから、斑鳩宮と名づけたことによる説と、伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として祀られていることからつけられたという説がある。

聖徳太子は推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、その後太子自身も移り住んだ。当時政治の中心地であった飛鳥から20km以上離れていて、また葦の生い茂る湿地帯だったという斑鳩の地に、なぜ太子が宮を造り移り住んだのか、その明確な理由は謎である。
確かなことは、斑鳩宮が現在の法隆寺東院伽藍の場所にあったということだ。

斑鳩には太子建立の法隆寺をはじめ、太子の病気平癒を願って息子の山背大兄王らによって建立された法輪寺や、太子が法華経を講説した岡本宮を寺に改めたと伝えられる法起寺など、太子ゆかりの神社仏閣や地名が多く残り、太子の足跡を今に伝えている。

太子と業平も通った古代の道

斑鳩の里には、竜田越奈良街道(別名竜田道)と呼ばれ大阪と奈良を結ぶ現在の国道25号にあたる街道や、聖徳太子が飛鳥と斑鳩宮を行き来したといわれる太子道、平安時代の歌人在原業平が河内の高安にいる姫のもとへ通ったという業平道(※民話参照)など、江戸時代に徳川幕府によって整備された街道からすると遥かに古い歴史と伝説を持つ道が数多く存在する。

竜田越奈良街道は、飛鳥時代に大阪の四天王寺と法隆寺を結ぶ道として、聖徳太子自身もこの街道を利用していたといわれ、その道沿いの地域には太子にゆかりのあるお寺や地名が残る。

しかし、日本人であれば誰もが知っている聖徳太子とは、一体どのような人物であったのであろうか。

聖徳太子二王子像

聖徳太子二王子像(宮内庁蔵)
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聖徳太子とは?

聖徳太子という名が、亡くなった後に生前の功績に対し贈られた諡(おくりな)であることは広く知られている。生前の名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)で、上宮太子(かみつみやたいし)や豊聡耳(とよとみみ)などと呼ばれていた。
伯母である推古天皇の摂政として政治の主導を握り、有能な人材を登用する冠位十二階の制度や、官僚や貴族が守るべき道徳的規範を十七条憲法として制定したことはあまりにも有名である。
また、小野妹子らを隋に派遣して積極的に大陸の文化を取り入れ、仏教を保護し世の中に広めた人物でもある。

日本人であれば誰もが知っている聖徳太子であるが、資料が乏しく謎に包まれた部分が多い人物であるのも事実だ。かつて歴史の教科書やお札に描かれた肖像画なども、聖徳太子だと断定できるものはないという。
厩戸皇子は存在したが、聖徳太子は、蘇我氏を悪者にしたい藤原不比等が捏造した架空の人物である、という説まである。

謎が多いがゆえに、様々な想像が脹らむ。学校で教わった歴史の裏側をあれこれ考えながら訪れると、より一層斑鳩の魅力が深まるだろう。

聖徳太子と家系図

取材協力:斑鳩町観光協会/斑鳩文化財センター/中宮寺/蔭山 精一 氏