歴史をたどる~現世の浄土を求めて 信仰の道~

黄泉の国、熊野

暗く細い山道を、熊野本宮大社を目指してひたすら歩く

深く豊かな自然に抱かれた聖地、熊野。
古代の人々にっとって熊野とは、祖霊のこもる根の国、イザナミが赴いた黄泉の国であったという。
熊野の「熊」は、「隈(くま)」=遠く奥まった地、地の果てという意味からの説や、古代の人々が死者の隠れるところと呼んだ、「隠国(こもりく)」の音が変化したものであるという説などがある。
いずれにしろ明るいイメージではない。
しかし、それ故に古来から人々が自然への畏敬・畏怖の念を抱く神秘的な場所だったのだろう。
里と違い山道はひんやりとした空気が漂い、昼なお暗く、木々が風にしなう音が静けさの中にこだまする。
この道を、どんな人々が、いつから歩いてきたのか。

霧立つ熊野の山々

箸折峠の牛馬童子像

熊野へ参らむと思へども・・・・

熊野古道とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称のことであり、また、霊場・山岳修行の道でもある。平安期には、貴族や上皇など身分の高い人々のものだった熊野詣は、浄土信仰の広がりに伴い、中世期以降には「蟻の熊野詣」と言われるほど、庶民や病人にいたる多くの人々が行列を作り、魚、肉、葱、韮などを絶つ潔斎をしながら、長く険しい祈りへの道を歩いた。

一口に熊野古道といっても、ルートはいくつもある。平安期の貴族は京の都から紀伊路を経て本宮を目指したが、熊野詣が一般庶民にまで広がった江戸期に入ると、東国からのお伊勢参りを終えた人々が、伊勢路を通って詣でることが多かった。

今でこそ、交通機関が発達し、気軽に行くことのできる熊野詣でだが、かつては道半ばにして行き倒れて亡くなる人々も多かったという。
平安末期に人生のうち34回も熊野本宮大社を詣でた後白河法皇は、当時の熊野詣がいかに厳しかったかを、こう詠んでいる。

  「熊野へまいらむと思へども
   徒歩(かち)より参れば道遠し
   すぐれて山きびし
   馬にて参れば苦行成らず
   空より参らむ 羽を賜(た)べ若王子」

      後白河法皇編纂『梁塵秘抄』より

百間ぐらの眺望。どこまでも峰が続く

信不信をえらばず、浄不浄をきらはず

「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り」

と、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場するように、江戸期の人々の信心深さと、熊野詣への憧憬をうかがうことができる。

しかし、なぜ人々は、何度も厳しく険しい道を越えて熊野三山へ詣でたのだろうか。それは、信じる者もそうでない者も、貧しき者も富める者も、女性も、病を持つ者も、等しく祈念の機会を与えられてきたからだ。

「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」

これは、鎌倉時代の一遍が熊野本宮に参詣したおり、熊野権現から夢託を得た言葉である。
また、熊野詣の回数が多いほど熊野権現の功徳が深まると考えられ、阿弥陀如来に願えば、死後の救済はもちろん、現世での安楽もかなえられると信じられたという。

巡礼者をひっそりと見守る石仏

熊野三山に至る苦難の道をたどることによって、己の罪と穢れを滅ぼし、本宮の阿弥陀如来を拝することで、生きながらにして新しい自分に生まれ変わるのである。

人々が精進潔斎をし、現世での生まれ変わりを信じて歩いたこの巡礼の道は、スペイン―フランスの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に続き、2004年7月「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界で2例目の「道」の世界遺産へと登録された。

苔むした古道もさることながら、熊野の雄大な自然に染みこんだ、先人たちの深い祈りの声に耳を澄ませて歩きたい。