歴史をたどる~神々の鎮まる国、常世の国~

神武天皇より始まる那智の歴史

那智の滝・青岸渡寺の三重の塔

那智の滝と青岸渡寺の三重の塔

那智とは、この熊野地方で「ナグチ」、「ナギタ」など、山の入り口を意味する方言から由来するといわれている。

JR那智駅から見える海は、目に沁みるような眩しい蒼。
ここからどこに緑深い古道があるのかと疑わしくなるが、熊野交通バスに乗ってからは延々と坂道が続く。10分も行くと周囲の景色はすっかり山深くなった。

熊野三山のうちの一つ、熊野那智大社の起源は、那智の大瀧を信仰する自然崇拝に始まったという。
熊野那智大社の社伝には、

「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、、、」

と記録されていて、仁徳天皇5年に現在の場所に社殿を造ったとされる(およそ1670年前)。
参詣者たちは、那智山の麓、市野々(いちのの)にあるニの瀬橋で禊(みそぎ)をしてから、大門坂付近にある俗界と聖域の分かれ目、振ヶ瀬橋を渡った。

熊野灘の鯨

熊野灘では鯨を見ることができる

那智瀧に神を見る

中世になり仏教が盛んになると、神と併せて仏をまつる神仏習合の信仰が一般的となる。神道においては神々が鎮まる場所として、仏教においては補陀洛(浄土)とみたて、人々は様々な願いを込めて那智山を目指した。

那智瀧は、本来は修験道の行場として扱われる48の瀧(那智四十八瀧)を総称するもので、写真によく見る大瀧はその「一の瀧」である。
平安期の花山天皇(在位:984年~986年)は、藤原氏の権力欲による陰謀によって19歳の若さで出家して法皇となり、仏門に救いを求め、那智の二の瀧(一の瀧の上流)の断崖に庵を設け、千日の瀧篭行をしたと伝えられている。

「補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」

の一首を青岸渡寺(せいがんとじ)に奉納され、これが最初のご詠歌(えいか)と言われている。

(※ご詠歌・・・仏教の教えを5・7・5・7・7の和歌にし、節をつけて曲としたもの)

日本の頂点に立たれた方が、熊野の深い原生林の滝の麓で3年に及ぶ厳しい瀧行を行うとは、いかほどの悲しみであったろうか。

大門坂

大門坂より那智大社を目指す

那智瀧

那智瀧を臨む

南の海の彼方、補陀洛を目指して

那智はまた、補陀洛渡海(ふだらくとかい)の行なわれた土地でもあった。
補陀洛渡海とは、小さな屋形の造られた船に30日分ほどの食料などを積んで、南の海の彼方にあると信じられた補陀洛を目指すという一種の捨身行である。屋形は渡海者が入ると、外から釘を打って閉じたため、自ら外に出ることはできなかった。
そして、那智の浜から別の船が沖まで曳いて綱を切り、海流に流されていくのである。

那智では、868年から1722年の間に20回実施されたといわれ、中には平清盛の孫にあたる平維盛や、鎌倉武士の下河辺行秀(しものこうべゆきひで・出家して智定坊《ちじょうぼう》と名乗った)などもいた。
下河辺行秀は、源頼朝の前で大鹿を矢で打ち損じたことを恥じ、渡海を決意したと吾妻鏡は伝える。

多くの人々がそれぞれの救いを求めた場所、那智。
神々はいる。原始の森に、大瀧に、そして海の彼方に。

那智川と桜

那智川と桜

那智山からの眺め

那智山より彼方に熊野灘が見える

(※補陀洛とは、古代サンスクリット語で観音浄土を意味する「ポータラカ(potalaka)」の音が伝わったもの)
(※吾妻鏡・・・鎌倉時代に成立した日本の歴史書)

■取材協力  和歌山県観光振興課/那智勝浦町観光協会/熊野那智大社
静寂の古道

静寂の古道(大門坂より)

青岸渡寺

西国三十三番札所 青岸渡寺

勝浦紀の松島

絶景・勝浦紀の松島

大雲取越

雲の中をいくような峠、大雲取越