歴史をたどる~街道の交差する歴史の舞台~

近つ淡水(ちかつあはうみ)

琵琶湖

長浜城裏手からの琵琶湖

日本一の面積を誇り、滋賀県の約1/6を占める琵琶湖は、数十万年前から存在する世界でも有数の古代湖だ。滋賀はかつて近江国といい、今も近江町や近江八幡などの地名があるが、「近江」という言葉は、都に近い湖「ちかつあはうみ(近つ淡水)」に由来する。

その琵琶湖の東北に位置するのが秀吉ゆかりの城下町、長浜。
本来は「今浜」といったが、秀吉が今浜に居城した際に、主君である織田信長の名から一字を拝領して「長浜」と改められた。

江戸時代には北国街道の宿駅として、また商業の中心地として栄え、明治時代には、まだ東海道本線が全通する前に、鉄道と湖上の連絡船の乗り継ぎ場として栄華を誇った。
その平和な時代が築かれるまでに、数々の戦の舞台になったのもまた、長浜を含む北近江一帯であった。

小谷道と北国街道

北国街道の宿駅としての長浜は、代々吉川家が務めた本陣も存在したが、江戸時代を通じて「長浜宿」とは称さず「長浜町」の名で呼ばれ、街道の整備は遅かったという。

幕末の動乱期に京都の政治的重要性が増し、それに伴って北陸の大名や志士たちが京・大阪へ頻繁に出入りするようになり、大いに栄えるようになった。

それまでの戦国時代においては、米原から鉄砲の里・国友(くにとも)を通り小谷城下の伊部宿に至る“小谷道”と呼ばれる街道が繁栄していて、湖北における合戦場への経路としても重要視されていたようである。

また、天文7年(1538年)8月に六角定頼が小谷城にいる浅井亮政を攻める際、小谷道を中心に自軍を布陣したとの記録も残っている。

北国街道

たくさんの人で賑わう北国街道

小谷道

小谷城へ続く小谷道(伊部宿)

その他、北近江には美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原宿から春照(すいじょう)宿・伊部宿を経由して木之本宿に至る“北国脇往還”や、長浜町から宮川・観音坂を経由し春照宿に至る長浜街道など、古代・中世から近代に至るまで、東海や近畿、北陸を結ぶ経路として多くの街道が利用された。

小谷城と浅井家の女性たち

小谷城址からの眺望

江(NHK大河ドラマでも取り上げられている)も見たであろう小谷城跡からの眺望

前述の小谷城といえば、浅井三代の居城として知られている。
戦国一の美女と詠われたお市の方(織田信長の妹)を妻に、茶々・初・江の三姉妹を娘にもつ三代目浅井長政は、義理の兄でもある信長との戦いに敗れ、小谷城の一角にある重臣赤尾氏の屋敷敷地内において自刃し、29歳の生涯を閉じた。

お市の方はその後、柴田勝家と再婚するが、勝家が羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れると、北ノ庄(福井県)で勝家と共に自害した。
二度の落城を味わった三姉妹は、先の戦で父を失い、そしてまた母を失ったのであった。

その後、茶々は秀吉の側室となり、淀の方と呼ばれ大坂城落城の際、息子秀頼と自害。初は京極高次の正室となり、三姉妹の中で最も長命であった。
江は2度目の夫を戦地で亡くす悲劇を乗り越え、徳川秀忠の正室となり家光を産み、歴代徳川家の正室として唯一の将軍生母となった。

戦乱の世にもまれながらも力強く生きた浅井家の女性たち。
北近江は、そんな彼女たちが幼いころ家族一緒に暮らしたあたたかな思い出の地なのである。

秀吉像

長浜城にある太閤秀吉像

伊部宿本陣

小谷道 伊部宿の本陣

小谷城址首据石

小谷城址内にある首据石

赤尾屋敷跡

浅井長政自刃の赤尾屋敷跡