歴史をたどる~世界遺産 首里城へ続く道~

琉球王国とは

首里城正殿

首里城正殿 提供:首里城公園管理センター

大小160の島々からなる沖縄。
戦国時代や徳川幕府については多少の知識があっても、沖縄の歴史について私たちはあまり知らないのではないだろうか。

琉球王国は、日本の室町時代にあたる1429年に、尚巴志(しょうはし)が「按司(あじ)」や「世の主(よのぬし)」と呼ばれる各地の首領を従わせ成立させた独立国家である。
尚巴志は首里城を居城とし、室町幕府をはじめ明国や朝鮮などと貿易を盛んに行い、琉球王国を発展させその基礎を築いた。

盛んに周辺諸国と交易をし繁栄した琉球王国であったが、1609年薩摩軍が琉球に侵攻し、以降徳川幕府の体制に組み込まれることとなり独立国家だった時代は終焉を迎える。

しかし、琉球は国王や将軍の代替わりの際に徳川幕府へ使節団を派遣したり、薩摩藩にも次期国王が派遣されたり、日本と従属関係を維持しつつも、中国に対しては明国、次の清朝へも従うという、二重の立場を取っていた。

日本と中国の両国に朝貢し、バランスを上手にとりながら生きてきた琉球は、双方の文化を巧みに吸い上げながら独自の文化を作り上げていったといえよう。

首里城と浦添城をつなぐ尚寧王の道

琉球には、首里王府からの発せられる布達や、地方からの年貢を運ぶために各地の間切(まぎり、現在の市町村にあたる区画)を結ぶ幹線道路である宿道(しゅくみち)が島の隅々にまで広がっていた。

そのうちの一つに、中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)がある。
首里城を起点に、安波茶、牧港を経て読谷に至るルートを指しているが、安波茶橋を越えたあたりまでほぼ中頭方西海道をなぞり、浦添間切番所跡を経由して「浦添城前の碑」にに至る道を、「尚寧王の道」と呼ぶ。

(※ルートは「歩く」をご参照下さい)

尚寧王は1589年から1620年に在位した琉球王国の国王で、薩摩の侵攻を受けて江戸に連行され、二代将軍徳川秀忠に謁見したことで知られる。
その浦添按司家の出身であった尚寧王が、1597年に首里から浦添グスクまでの道を石畳にし、木造の橋を石橋にするなどの整備をするよう命じたものが、「尚寧王の道」である。

浦添城にある「浦添城の前の碑」(1999年復元)はその時の記念碑で、碑文には平仮名の琉球文と漢文で、道作りの様子や竣工儀礼などの様子が書かれている。

浦添城に続く古道

浦添城に続く古道

浦添城の前の碑

浦添城の前の碑

琉球の信仰と城(グスク)

首里城の創建は14世紀といわれていて、明治に入り廃藩置県が発布されるまでの約500年にわたり琉球国王の居城として、また琉球の政治・文化の中心としてあり続けた。

沖縄では城のことを一般に「グスク」といい、世界遺産に指定されたグスクは5つ(今帰仁城、座喜味城、勝蓮城、中城城、首里城)、それらは全て有力な按司が拠点、または居城とした大規模なものである。
しかし、グスクには宗教的側面としての聖地の存在であるものも多くいわゆる“城”の機能がない小さな遺跡を数えると、南西諸島に300以上あるという。

首里城にも「御嶽(ウタキ)」という聖地があり、城ができてから聖地を設けたのではなく、最初にこの聖地があってその周りに城を築いたと考えられている。
グスクは時代によってその性格に変遷があり、聖地でも集落でも墓でもあったといわれているが、解明されていない部分も多い。

首里城

守礼門より首里城を臨む
提供:首里城公園管理センター

園比屋武御嶽石門

世界遺産 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
国王が出かける際、道中の安全を祈願した礼拝所である

中国と日本の狭間で独自の文化を形成していった琉球。
その遺跡の多くは第二次世界大戦で破壊されたが、人々の努力によって王朝の姿を取り戻しつつある。
首里城正殿は1992年に復元され、今後も失われた首里城の復元が進められていく。

(※御嶽とは、「ニライカナイ」という東方の海の彼方にある神々の世界、また天上からやってくる神様が訪れる聖地として 人々の信仰を集め、五穀豊穣や航海の安全などを祈願し、今も御嶽の前で額づく人が後を絶たない)

■取材協力  琉球史研究家 上里隆史 氏/那覇市観光協会/首里城公園管理センター
那覇市教育委員会/浦添市教育委員会
歓会門

歓会門(かいかんもん)首里城の正門にあたる

首里城からの眺め

首里城からの眺め

ブーゲンビリア

ブーゲンビリア

首里城の獅子

首里城正殿の階段手すりの獅子

浦添城の前の碑

浦添城の前の碑と戦闘機