歴史をたどる~天平時代から現代へつなぐ郷の歴史を紐解く~

歩き始め

しなの鉄道田中駅から歩いておよそ20分。道しるべに導かれるまま線路の踏切を渡ると、黄金色に色づいた銀杏の巨木が見え、これから始まるであろう異空間の存在を告げる白鳥神社に辿りつく。境内に入り鳥居を振り返ると、澄んだ秋の空と連なる山々の稜線が目に飛び込んでくる。ここは千曲川のほとり、約650メートル続くかつての宿場、海野宿だ。

白鳥神社から信濃の山々を望む

天平の昔から存在する古(いにしえ)の里

海野の歴史は思いのほか古く、その名前は天平時代(740年前後)の奈良・正倉院の御物にみられる。麻織物の紐の芯に、海野郷の主である職人が献上したという内容の墨書きがあり、少なくとも1200年前には、既にこの付近一帯が海野郷と称していたことを物語っている。

大正期の海野宿(西方)
茅葺屋根の家々が並び、電信柱に時代の流れを感じる

現在の海野宿
街路樹が植えられ風にそよぐ

現在の東御(とうみ)市周辺を支配した豪族・海野氏発祥の地でもあり、源平合戦の折にはこの地を拠点とし、海野氏をはじめとする信濃武士集団が平家討伐のために旗揚げをしたという。戦国時代に名を馳せた真田一族も海野氏の系譜で、前述の白鳥神社を篤く信仰した。

ここは、かつて武田信玄(晴信)や上杉謙信(長尾景虎)など戦国の猛将たちが、海野を含む信濃一帯の覇権を争った「兵どもが夢のあと」の土地なのだ。

海野が舞台の戦国期の絵図

宿場から養蚕の村へ-日本の道百選の美しい町並み

宿場町としての海野宿は、寛永2年(1625)年に北国街道の宿駅として開設され、中山道と北陸を結ぶ重要な街道として大変栄えていた。

江戸時代には、佐渡で採れた金の輸送道として、あるいは善光寺への参詣道として、そして北陸の諸大名が参勤交代の際に大勢のお供を連れて通った道として、たくさんの旅人を癒したであろう旅籠屋造りの建物が並ぶ。

大正期の海野宿(中央)
道幅は現在と変わらない

現在の海野宿
趣をそのまま残した美しい街道

それぞれの家の間口は狭いが、かなりの奥行きがある。南北の家の裏手には「裏街道」と地元の人が呼ぶ道が伸びていて、日常生活はもちろんだが、大名行列の際や、夜間宿場の木戸が閉められてしまった後にも使われたという。

明治時代になると、宿場としての機能は失われ、この地域では養蚕業が盛んになった。宿場時代の広い部屋は蚕部屋として使用され、屋根には「気抜き」(※見所参照)という養蚕に適した工夫がなされた。財を成した家は近隣に分家も多く、同じ苗字を何軒も表札に見ることができる。

江戸期から現在に至るまで、町並みの端々に歴史の変遷を辿ることができるこの海野宿は、「日本の道百選」と共に、「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されている。

人々の大小様々な工夫に目を凝らし、1000年を超える歴史に思いを馳せながらゆっくり歩いてみてはいかがだろう。

取材協力:長野県東御市観光協会/海野史研究会 武舎秀雄氏

家屋の内部(非公開)

紅葉が見事な白鳥神社の大銀杏

秋晴れの海野宿

旬の食材を無人販売

通学路でもある街道

偶然出会ったお侍さん