民話を読む~今に伝わる「海野」の由来~

海野に伝わる日本武尊伝説

今から約1900年前、日本武尊(やまとたけるのみこと)が父景行(けいこう)天皇の勅命を受けて東国の征伐に向かいました。焼津の原で火攻めにあったり、上総へ渡る相模の海では、神の怒りを鎮めようとお后の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じるという悲しい目にも遭いました。度重なる苦難の末、見事東国を討ち遂げた帰路、相模の方を眺め入水したお后を偲んで

「吾妻者邪(あずまはや)妻こいし」

と叫びました。このため、現在の群馬県に吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村の地名が付けられたといわれています。

それから信濃の国に入り滞在した折、近くの小さな海を見て相模の海難を思い出した武尊は、

「この海も野になれ」

と念じました。この土地が後に海野といわれるようになったと伝えられています。

その後武尊は、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境)での豪族と戦いにおいて傷を負い、あの山を越えれば大和だという一歩手前の能褒野(のぼの/三重県)という所で、ついに動けなくなってしまいます。

「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる倭し美(うるは)し」

大和は素晴らしい国だ、山々が幾重にも重なり囲んだ美しい国だ、という故郷を懐かしむ歌をうたい、30歳で息を引き取りました。

能褒野に墓を築くと、墓の中から突然一羽の巨大な白鳥が舞い上がり、武尊が生前帰りたがっていた大和に向かって飛び去っていきました。そしてどういうことか、白鳥は奈良の琴弾(きんだん)の原に翼をしばし休めるとまた舞い上がり、あちこち回った後、信濃の国海野の里に来て翼を休めました。

景行天皇は諸国に命じ、白鳥の止まった所に祠を建てて武尊を祭りました。海野宿の白鳥神社もそのうちの一つだといわれています。

海野のかぼちゃぼうとう

江戸時代も天下泰平の世、あるところに初めての参勤交代を控えたお殿様がいました。
お殿様は各宿場での名物を召し上がりながら江戸へと向かいます。ところがお殿様ですから、食事ができてから何度も毒見をされたものを出されるので、蕎麦は伸びきっているし、杏などは皮を剥かれ種を取られた上、食べやすくするためジャムのように潰されてしまいます。お殿様は初めて食べるので比べようもありません。こんなものかと旅は続きました。

窮屈な駕籠に長いこと揺られたお殿様は、馬に乗る、と家来の者に告げました。ところが普段乗り慣れない馬ですから、だんだんとお尻が痛くなって仕方がありません。かといって今さら駕籠に乗ると言えないお殿様は、海野宿まで来たとき、ぱっと馬から飛び降りると、突然「ここで休む」と我侭を言いだしました。

長い大名行列のこと、先導するお供たちは、まさか自分たちの後ろでお殿様が止まっていることを知らないので、伝令は右に左にてんてこ舞い。やっとのこと行列が止まると、今度は「腹が減った」というお殿様。

海野宿の道の真ん中を流れる川の南側で腰を下ろしていると、向かいの家からおいしそうな匂いが漂ってきて、海野格子の向こうに子どもが何やら食べているのが見えます。

家来を使いに遣ると、「かぼちゃのほうとう」を食べているといいます。お殿様がそれを所望すると、煮え立てで熱々のほうとうが差し出されました。冷たいものばかり食べてきたお殿様は、その温かいほうとうが美味しくてたまらない。とうとう鍋全部を一人で平らげてしまいました。

家来からは、「ほうとうを食べたことは、どうか御内密に。これがわかると家臣一同、大変なことになります」

と言われたお殿様、かぼちゃぼうとうの味を忘れることも、誰かに打ち明けることもできません。

ある日、江戸城に登城して他の大名たちと雑談しいると、食べ物の話になりました。お殿様は今まで我慢していた海野宿のかぼちゃぼうとうの話をうっかりしてしまいました。

大名たちのことですから、当然庶民の料理、ほうとうを知るはずもありません。
お殿様があんまりにも美味であるというので、どの大名たちも一度食べてみたいと思うようになりました。

それから、参勤交代で海野宿を通る大名たちはみな口々に、「かぼちゃぼうとうを食べたい」と言って、家来たちを困らせたそうですよ。

紅葉が見事な白鳥神社の大銀杏

秋晴れの海野宿

旬の食材を無人販売

通学路でもある街道

偶然出会ったお侍さん