追分宿おいわけしゅく(長野県北佐久郡軽井沢町)

追分宿は4.7㎞と短いが、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒があった。
また、旅籠35軒に250人の飯盛女がいたため、追分節につぎのように唄われた。

  「浅間山から飛んでくる鳥、金も無いのにかうかうと」
  「浅間山から追分見れば、飯盛女郎がうようよと」
  「三味を横抱き浅間を眺め、辛い勤めと眼に涙」

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追分宿郷土館(おいわけしゅくきょうどかん)
追分宿の旅籠・茶屋などの民族資料や、昔の人々の生活用品、本陣土屋家の子文書などを展示している。
常夜燈(じょうやとう)
追分一里塚の先の分岐点に常夜燈がある。
浅間神社(あさまじんじゃ)
本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇(おおやまつみ)神と磐長姫(いわながひめ)神の二神が祀られている。
明治2年5月より浅間山の鳴動が特に激しく、沈静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。
境内にある「ふきとばす 石も浅間の 野分かな」の芭蕉句碑は、寛政5年(1793年)春秋庵二世長翠の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分が吹くころの風情がしのばれる。
昇進橋(しょうしんばし)
※詳細は調査中
追分本陣門(東門)(おいわけほんじんもん(ひがしもん))
現在は、堀辰雄記念館の入口となっている。
油屋脇本陣跡(あぶらやわきほんじんあと)
旅籠である油屋の「つげの間」で堀辰雄は「風立ちぬ」を執筆した。
土屋本陣跡(つちやほんじんあと)
問屋を兼ね、貫目改所も設けられていた。建坪350坪で、加賀の前田家をはじめ、多くの大名が休泊した。1878年に明治天皇の行在所となり、上段の間を残している。
高札場(こうさつば)
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった、法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた版札を高札という。
寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。
昭和58年、当時の古文書等から、高札場を復元した。ここに掲示してある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
諏訪神社(すわじんじゃ)
小林一茶の句碑が建っている。
泉洞寺(せんとうじ)
境内には、弥勅(みろく)菩薩の半伽思惟像があり、左手を頬に当てているため「歯痛地蔵」と呼ばれている。
枡形茶屋つがるや(ますがたちゃやつがるや)
寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿場内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
分去れの碑(わかされのひ)
「右、従是北国街道 左、従是中山道」と刻まれている。

中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
右は北国街道姨捨山の「田毎の月」で知られる更科へ。左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。

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