石和宿いさわしゅく(山梨県笛吹市)
- 鵜飼山遠妙寺(うかいざんおんみょうじ)
- 当山は、往昔文永11年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である。
之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又、謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである。
- 石和宿本陣跡(いさわしゅくほんじんあと)
- 宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。
以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。
≫甲府柳町宿へ行く
石和宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒であった。
石和は武田氏の故地。新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、以降武田と名乗った。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
宿の北東大蔵寺山麓に温泉が僅かに湧いていたが、昭和36年1月石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した。
石和とは大小の多くの川が流れる荒地で藺(い)が一面に生い茂っていたので藺の沢と呼ばれ、その後転化し石和となった。
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