桶川宿おけがわしゅく(埼玉県桶川市)

桶川宿は、江戸から出た旅人が最初に宿泊することが多かったようだ。現在の町並みは、寛永12年(1635)にほぼ完成し、紅花の生産地として、出羽の最上に次ぐ生産量で問屋が軒を並べるようになった。紅花は荒川の太郎右衛門河岸から江戸へと出荷されたが、明治以降化学染料の普及で紅花は衰退した。旧中山道と国道17号が分岐しているため道路改修などもなく、さらに戦災も免れたため当時の建築物も残り宿場の面影を残している。

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南木戸跡(みなみきどあと)
川越街道と分かれる交差点に、史跡木戸跡の石柱がある。江戸側の木戸のため、「南の木戸」や「下の木戸」と呼ばれている。
藤倉家(ふじくらけ)
昭和6年(1931)に建てられ、魔除けと同時に火除けとして屋根に鍾馗様の像が祀られている。
武村旅館(たけむらりょかん)
幕末に紙屋半次郎がここで旅籠を営み、大正時代に改築されたが内部の間取りは昔の名残を残す。和宮が本陣に泊まったとき、付き添いの山岡鉄舟はここに泊まっており、自筆の宿帳も残る。
浄念寺(じょうねんじ)
天文15年(1546)創建。下の寺と呼ばれ鐘は桶川宿の「時の鐘」と言われる。口を開けている阿形、閉じている吽形の仁王像が左右に立っている。境内には「不動堂」「太子堂」「徳本念仏供養塔」など、宿場の人々の暮らしを伝えるものが数多くある。
矢部家(やべけ)
「木半」の屋号を持つ矢部家の蔵造建物。明治前期に建てられたもので、川越の蔵造り商家を建てた棟梁の手になるものと伝えられている。戦前まで米や麦の集荷問屋で、広い土間には収穫期には米や麦の俵が山積みされ店の裏にある3棟の蔵に次々と運び込まれた。屋号の「木半」は、稲荷神社にある「紅花商人寄進の石燈籠」にその名が刻まれており、「木嶋屋半七」に由来すると云われている。
問屋場跡(とんやばあと)
現在の島屋洋品店と吉田酒屋にあたるところが、問屋会所のあったところと伝えられている。また、島村一番舘ビルあたりに脇本陣内田家があり、その前に高札場のあったところと伝えられている。
府川本陣跡(ふかわほんじんあと)
宿場には、参勤交代の大名の宿泊にあたる本陣と、これを補う脇本陣2軒が置かれてた。桶川宿の本陣職は府川家が勤めてた。幕末には、15代将軍徳川慶害の父にあたる水戸藩主徳川斉昭がここに宿泊し、文久元年(1861)年に皇女和宮がここに宿泊したこともよく知られてる。かつて建坪207坪の規模を誇った本陣のうち、上段の間とそれに付属する次の問、湯殿が現存する。土曜日の午後1度だけ短い時間主人の好意で市の係員が案内し見学できる。県指定文化財。
脇本陣(わきほんじん)
中山道宿場館と本陣の隣の民家が脇本陣であった。
大雲寺(だいうんじ)
上の寺と呼ばれた曹洞宗龍谷山。弘治3年(1557)の開山と伝わる。墓地には本陣を勤めた府川家や宿場縁故の家々の墓がある。本堂に向って右に3体の地蔵があり、右端が女郎買い地蔵である。由来は、この地蔵が夜な夜な飯盛り女に会いに出る。このため和尚が地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ鎖で繋いだ。これは和尚が寺の小僧の夜遊びを戒めるためであったらしい。
一里塚碑(いちりづかひ)
塚木は杉が植えられ、その根元には妙見様をまつる石の祠があったそうであるが、明治9年(1877)取り壊されてしまった。昔は歩道橋の脇に碑があったが、今はない。
北木戸跡(きたきどあと)
木戸跡の石柱がある。鴻巣側の木戸のため、「北の木戸」や「上の木戸」と呼ばれている。戸に木戸の言伝えが書いてある。桶川宿の古絵図にもこの木戸は描かれ、文久元年(1861)に、皇女和宮を迎える前に木戸を立て直した記録も残っている。このときの木戸は、高さ1丈8尺、幅8寸の角材で珊を作ったものと伝わっている。
桶川宿碑(おけがわしゅくひ)
桶川宿の碑がある。

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桶川宿 南木戸跡 藤倉家 武村旅館 浄念寺 矢部家 問屋場跡 府川本陣跡 脇本陣(中山道宿場館) 大雲寺 一里塚碑(歩道橋) 北木戸跡 桶川宿碑

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