高崎宿たかさきしゅく(群馬県高崎市)
- 中山道街道絵巻(なかせんどうかいどうえまき)
- この絵巻が作られた目的は、「高崎のまちの景観をよりよいものにする為、また高崎の文化的、歴史的なものをよみがえらせる為、そして高崎の景観を乱すと思われるものへの対策を施す為」ということである。
新町宿から坂本宿までが描かれている。
- 山田家(旧山源漆器店)(やまだや(きゅうやまげんしっきてん))
- 明治13年の大火により町家の大半が焼失した本町地区は、防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きの町家が増えた。
この山田家は、北側の通りに向かって熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そしてなによりも漆喰で仕上げられ黒く塗られた外壁はとても風情がある。
- 高崎神社(たかさきじんじゃ)
- もとは熊野神社といい、紀州の熊野の神を祀っている。伊邪那美の神を主神とし、その他に速玉男神と事解男神とが合わせ祀られている。伊邪那美の神は、伊邪那岐の神と夫婦の契りを交わし、結びの神と崇められている。
- 惠德寺(けいとくじ)
- 天正年間(1573~1592年)井伊直弼公が、伯母である惠德院宗貞尼菩薩の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山惠德院と号した。
慶長3年(1598年)井伊直弼公が和田城入城の折に、この寺を城北榎森に移し、松隆東向院惠德寺と改めた。
- 長松寺(ちょうしょうじ)
- 長松寺の本堂には、狩野派の絵師「狩野探雲」による龍と天女の絵と涅槃図の掛け軸がある。これは、高崎市指定重要文化財である。
この寺の客間は高崎城から移築されたのもで、江戸幕府3代将軍徳川家光の弟、徳川忠長が切腹した部屋と伝えられている。
- 山田文庫(やまだぶんこ)
- この建物は、明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅であった。1974年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在は一般に公開されている。
屋敷蔵、土蔵2棟、明治16年移築の茶室などが、近代商都高崎の歴史を物語っている。
- 正一位稲荷大明神(しょういちいいなりだいみょうじん)
- 「正一位稲荷大明神」の称号は、伏見稲荷の祭神を、「稲荷勧請」によって、各地の稲荷の社祠に分祀したことを示すものである。そして「正一位」の神階は、伏見稲荷を「狐の本所」とする観念と関わりながら、「狐の官位」として普及していった。
- 君ヶ代橋(きみがよはし)
- 君ヶ代橋と言う名は、明治11年9月明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名された。
この君ヶ代橋親柱は、昭和6年に木橋から銅橋に架け替えられたときのもの。昭和52年より10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設された。君ヶ代橋も新たに架け替えられた為、ここの移設された。
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高崎宿は、井伊直政が築いた高崎城の城下町として発展し、上州路最大の賑わいを見せる宿場町となった。
しかし、高崎宿には、本陣や脇本陣が置かれていなかった。理由は、諸大名が御城下での宿泊を敬遠したからである。
≫倉賀野~高崎を歩く