倉賀野宿くらがのしゅく(群馬県高崎市)

倉賀野宿には、烏川を利用した舟運搬の河岸があり、河岸を合わせた宿場であった。さらに日光例幣使街道の分岐点として交通上の重要な地点でもあった。宿は「下町、中町、上町」で成り立っており「中町」が中心であった。街道は大名の宿泊や日光東照宮へ派遣される例弊使などで賑わを見せたが、例幣使はガラが悪く恐喝まがいの行為が目に余り宿は相当迷惑したといわれる。

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須賀庄脇本陣跡(すがしょうわきほんじんあと)
須賀庄脇本陣跡は道路に面した場所に、勅使河原本陣跡と同様の碑が立っていた。
高札場跡(こうさつばあと)
須賀脇本陣跡の50mほど先に「高札場跡」が復元されており「高札場跡碑」もある。後ろの「樅の木」には伝説が伝わる。

 安政2年(1855)のこと、倉賀野宿の宿場全部を焼き尽くすほどの大火災が発生した。ところがこの樅の木に天狗が現れ傍の1軒の家を必死で火災から守った。

安楽寺(あんらくじ)
この寺に伝えられる板碑は将棋の駒型をした天引石(砂岩)に梵字で阿弥陀三尊に天蓋、花瓶二つが付けられている。風化が激しく年号が読めないが、南北朝時代を下るものではないとのこと。板碑とは板仏(いたほとけ)または平仏といい、正式には板石卒塔婆と呼ばれる。

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