塩尻宿しおじりしゅく(長野県塩尻市)

塩尻宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒と中山道では旅籠が2番目に多かった。
ここは、北国西往環(善光寺道)と三州街道、中山道が交差しているため、交通の要衝として賑わっていた。

≫下諏訪~塩尻を歩く

道標(どうひょう)
「是より西 中山道 塩尻宿」と書かれた石柱がある。
塩尻口留番所跡(しおじりくちどめばんしょあと)
米・塩・材木・女人等の取締りを行っていた。
十王堂跡(じゅうおうどうあと)
十王とは、閻魔(えんま)大王をはじめとする、冥土で死者の裁きをする十人の王の総称で、十王信仰では、死者の罪の重さは、遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされていた。
小野家住宅 二棟(おのじゅうたく ふたむね)
小野家は、屋号を「いちょう屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行った。
旅籠として使われた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵を構え、さらに畑地をはさんだ奥に長屋門を置く。
建物の建設経過は、小野家が所蔵する文書により明らかである。つまり、文政9年(1826年)に文庫が建設され、文政11年(1828年)の火災後に同12年から天保7年(1836年)にかけて主屋他が建設された。
創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであったことが知られる。
主屋2階の客室として使われた5室いずれにも絵画・装飾が施され、「桜の間」など、各室にそれにちなんだ室名がつけられている。また、主屋の東側に取り込まれて作られた表門は、1階2階それぞれに便所が設けられ、旅籠としての機能と格式を融合させた巧妙な立体配置を見せている。
上問屋跡(かみどんやあと)
「塩尻宿 上問屋跡」と書かれた石柱がある。
明治天皇鹽尻行在所(めいじてんのうしおじりあんざいしょ)
天皇の行幸のとき、ここに仮宮があった。
高札場跡・下問屋跡(こうさつばあと・しもどんやあと)
「塩尻宿 高札場跡 下問屋跡」と書かれた石柱がある。
明治天皇塩尻御膳水碑(めいじてんのうしおじりごぜんすいひ)
明治天皇ご来訪の折りに、ここの水が炊飯やお茶に供されたことから、御膳水と呼ばれている。
塩尻宿本陣跡(しおじりしゅくほんじんあと)
中山道最大の本陣(川上家)があった。建物は明治15年に焼失し、現在は敷地に碑が建っているのみである。
塩尻宿脇本陣跡(しおじりしゅくわきほんじんあと)
本陣の西側にあったが、本陣と同じく明治15年に建物が焼失した。
塩尻陣屋跡(しおじりじんやあと)
酒造所の門のところに石柱のみ建っている。
中山道鉤の手跡(なかせんどうかぎのてあと)
鉤の手とは、ほぼ直角に曲がっていることを意味する。
ここで、国道19号から右へ曲がると中山道が続き、洗馬宿へ行く道となる。
阿礼神社(あれいじんじゃ)
平安朝時代醍醐天皇の延長5年(927年)に撰進された、延喜格式神名帳登載の由緒ある古社。
堀内家住宅(ほりうちけじゅうたく)
旧堀の内村の庄屋を務めていた。
建物は、築200年の本棟造りで、国重要文化財となっている。
石碑群(せきひぐん)
庚申塔や秋葉大神などの石碑が5基建っている。
塩尻橋(しおじりはし)
この橋の上から、北アルプスが遠くに見ることができる。

≫洗馬宿へ行く

塩尻宿 道標 塩尻口留番所跡 十王堂跡 小野家住宅 二棟 上問屋跡 明治天皇鹽尻行在所 高札場跡・下問屋跡 明治天皇塩尻御膳水碑 塩尻宿本陣跡 塩尻宿脇本陣跡 塩尻陣屋跡 中山道鉤の手跡 阿礼神社 堀内家住宅 石碑群 塩尻橋