関ヶ原宿せきがはらしゅく(岐阜県不破郡関ヶ原町)

関ヶ原宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒であった。
この関ヶ原付近では、壬申の乱や関ヶ原の戦いなどが起った場所で、いろいろと関連する史跡が多い。

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関ヶ原本陣跡(せきがはらほんじんあと)
ここはかつて本陣の庭の一角にあたり、当時より時代の流れを見つめてきた「スダジイ」がある。
スダジイは、ブナ科の常緑高木で椎の一種である。一般に大木・古木となる性質があり、葉は革質で長円形。果実はどんぐり状で食用になる。材は建材・家具材・椎茸の原木などにもなり、樹皮は染色に用いられる。
関ヶ原宿脇本陣跡(せきがはらしゅくわきほんじんあと)
慶長8年(1603年)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧である。その禅師の生誕地の当家は、後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重である。
常夜灯(じょうやとう)
西皇大神宮と彫られた常夜燈。
西首塚(にしくびづか)
関ケ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観音及び、馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされている。
関庁跡と兜掛石(せきちょうあととかぶとかけいし)
この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(108m)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎等が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・望楼等々が建っていた。
ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、左斜め後ろには同皇子使用の沓脱石がある。
不破関跡(ふわのせきあと)
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされている。
延暦8年(789年)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきた。

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関ヶ原宿 本陣跡 関ヶ原宿脇本陣跡 常夜灯 西首塚 不破関関庁跡と兜掛石 不破関跡