高宮宿たかみやしゅく(滋賀県彦根市)
- 常夜灯(じょうやとう)
- 高宮宿入口の常夜燈がある。
- 多賀大社大鳥居(たがたいしゃおおとりい)
- 中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永12年(1635年)に建立されたもの。
柱間は8m、高さは11mもある。
- 芭蕉の紙子塚(ばしょうのかみこづか)
- たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
貞享元年(1684年)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を描いてこの句を詠んだ。
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。
- 脇本陣跡(わきほんじんあと)
- 江戸時代高宮宿には2軒の脇本陣があり、その1軒がこの地におかれた。
門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244㎡であったという。
門前は領主の禁令などを掲示する高札場となっていた。
ここの脇本陣は、道中奉行の支配下にあり慶長13年(1608年)からは、人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており、問屋場とも呼ばれていた。
- 本陣跡(ほんじんあと)
- 江戸時代の参勤交代により大名が泊る施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。
構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取であった。
高宮宿の本陣は、1軒で門構・玄関付で間口約27m、建坪約396㎡であったという。
- 円照寺(えんしょうじ)
- 明應7年(1498年)、高宮氏の重臣北川九兵衛が剃度して釈明道となり、仏堂を建立したのが起源である。
元文5年(1740年)には火災で本堂は焼失したが、9年の歳月を費やし再建された。
境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」と呼ばれる松の木(二代目)や老紅梅の垣のなかに徳川家康が腰掛けたとされる「家康腰懸石」がある。
- 高宮橋(むちん橋)(たかみやはし(むちんはし))
- 天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用をひろく一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。
当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し。この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」とよばれた。
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天保14年の記録によれば、町の南北の長さ7町16間(約800m)の町並に、総戸数835戸・人口3560人で、本庄宿に次ぐ中山道第2の大きさ、本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠総数23軒の宿場施設を持つ大宿であった。
また、多賀神社への門前町として賑わい、多賀神社第一の大鳥居がここに建っている。
特産物として室町時代から全国的に有名になっていた高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。
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