中津宿なかつしゅく(大分県中津市)
- 小倉口(こくらぐち)
- 小倉橋の脇に「小倉口」と書かれた案内板がある。小倉城下の「中津口」に対する中津城下の「小倉口」である。中津口から小犬丸の渡しを往来できたのは、幕府役人、大名、上級藩士、そして通行手形のある人だけであった。
- 中津城西門跡(なかつじょうにしもんあと)
- 中津城の西南隅に位置する西門は、大手門と同じ「矢倉門」型と思われる。小倉口に一番近く、堀の巾を広くとり、その奥に三方を大石で囲った「枡形」をもつ搦手門(からめてもん)である。明治2年(1869年)10月放火により焼失した。
- 中津城(なかつじょう)
- 周防灘(豊前海)に臨む山国川河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城とも見られており、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つである。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、別名「扇城(せんじょう)」とも呼ばれている。現在の天守閣は昭和39年に復元されたものである。
- 自性寺(じしょうじ)
- 自性寺は奥平藩歴代の菩提寺である。藩祖信昌公が、三河新城にいた時、金剛山万松寺と称して創建。その後いく度か藩の転封に従い、移り、享保2年(1711年)六代藩主昌成公の時、中津に転封。延享2年(1745年)自性寺と改称する。寺には、徳川亀子姫の御位牌、七代藩主昌猷公の墓、織部燈籠などがある。
- 大雅堂(たいがどう)
- 第十二世提洲和尚が、宝暦14年(1764年)住職として、京より池大雅夫妻を伴い、自性寺に赴任した。池大雅は、九州の美しい景色にふれて、自由に筆をふるった。現在、障壁画47点が残っている。後、十代藩主昌高公が「大雅堂」と染筆、扁額を掲げてから、この書院を「大雅堂」と呼ぶようになった。
- 中津市歴史民俗資料館(なかつしれきしみんぞくしりょうかん)
- 中津市歴史民俗資料館は、慶応義塾で福澤諭吉に次いで尊敬を集めた、小幡篤次郎の生誕地にある。篤次郎の遺言により、生誕地と蔵書を元に明治42年(1909年)建設開館した。小幡記念図書館は、昭和13年(1938年)に改築された。図書館移転後、平成4年6月に中津市歴史民俗資料館となった。国登録文化財である。
- 生田門(しょうだもん)
- 南部小学校の校門であるこの「生田門」は、明治時代の廃藩置県後「中津市学校」の校門でもあった。もともとは、奥平中津藩家老生田家の門である。南部小学校の辺りは、江戸時代には“三の丸”と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並び、学校の敷地は「大手屋敷」と呼ばれた。家老の生田家の屋敷と、隣の「中の屋敷」と呼ばれた、奥平図書(おくだいらずしょ)の屋敷の一部である。
- 長福寺儒学堂址(ちょうふくじじゅがくどうあと)
- 裁判所の敷地は、かつての二の丸で細川忠興がガラシャ夫人のミサのために建立した長福寺のあった。奥平時代に儒学堂になった。
- 村上医家史料館(むらかみいかしりょうかん)
- 村上医家は、初代宗伯が寛永17年(1640年)諸町に医院を開業して以来、現在に至るまで医家として継続し、数千点におよぶ医学関係やその他の資料が残っている。
- 宝蓮坊(ほうれんぼう)
- 慶長5年(1600年)細川忠興が中津城に入封の際、行橋 浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後 宝蓮坊と改称されたものである。宝蓮坊は代々名僧が続き、第3代村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、天皇より非常なお褒めの言葉を戴き、大阪四天王寺の奥の院に祭られていた太子の尊像を拝領した。この尊像は室町時代初期の傑作と言われている。良道は帰国後堂をたて、多くの信者に講義を続けたが、長年の風雨により堂は消滅し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。
- 元合寺(がんごうじ)
- 黒田長政は政略結婚の話で鎮房を誘い出し、飲食を供し、そのさなかににわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにした。合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えなくなり、ついに赤壁に塗られるようになったという。当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
- 福沢旧居(ふくざわきゅうきょ)
- 福沢旧居は民主主義の先覚者、福沢諭吉が3歳から21歳までの青少年期を過ごした家である。国指定史跡になっている。隣接の記念館には「学問のススメ」の原本や壱万円札の1番が陳列されている。
- 増田宗太郎誕生之地碑(ますだそうたろうたんじょうのちひ)
- 福沢のまたいとこである増田宗太郎は、明治9年大分県で最初の新聞「田舎新聞」の編集長であった。明治10年(1877年)西南の役が勃発すると中津隊の隊長として、西郷隆盛とともに没した。
- 養寿寺(ようじゅじ)
- 養寿寺は、奥平家の菩提寺として奥平昌成が宮津より転封してきた際に開基した。山門は、江戸時代の棟門造りの建築で桟唐戸の入戸板の彫刻は左甚五郎の作ともいわれる。織部燈籠や芭蕉の句「此のあたり 目に見ゆるものみな涼し」と刻まれた納涼塚がある。
- 織部燈籠(おりべとうろう)
- 隠れキリシタンの礼拝用の石燈籠であり、千利休の高弟である古田織部が考案したものである。中津市内には、三基の織部燈籠があり、千利休の高弟細川忠興に形見として贈られたものである。殿町の井上邸、自性寺、養寿寺にある。写真は養寿寺のものである。
- 闇無浜神社(くらなしはまじんじゃ)
- 崇神天皇の時代に神託により創建。別名「龍王のお宮」ともいわれる。境内には、「吾妹子が 赤裳ひづちて 植えし田を 苅して蔵めむ 倉無の浜」と万葉集の歌碑が建っている。また、中津祇園発祥の地でもある。
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北部九州の雄藩であった中津藩の城下町中津は、天正15年(1587年)黒田孝高(如水)の入国にはじまり、細川氏、小笠原氏、奧平氏と受けつがれた。肥沃な沖代平野に恵まれて農業の発展をみるとともに、商人の出入りもにぎやかな城下町として発展を続けた。明治維新後は、わが国、民主主義の先覚者福澤諭吉などを輩出、進取の土壌を持つ地としても知られる。伝統を受けつぐ優れた祭事、芸能も多い。名勝耶馬渓の北の入口でもある。
≫八屋~中津を歩く