大橋宿おおはししゅく(福岡県行橋市)

大橋宿は宿駅としては半宿であった。仲津郡の公的施設が集中し、隣の行事村となって一大商業地域をなし、小倉藩屈指の商業都市であった。村内には江戸期を通じて御茶屋が置かれていた。当時の様子を菱屋平七は、行事村、大橋村がにぎわっていたこと。今川、祓川(はらいがわ)を歩いて渡ったこと、高瀬のお休み場に茶屋34軒があったことなどを「筑紫紀行」のなかで記している。また、豊津町には東西79メートル、南北105メートルに及ぶ豊前国府跡があり文化の中心であった。

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行事飴屋(ぎょうじあめや)
「行事飴屋」は、京都郡行事村を本拠として、宝永年間(1700年代はじめ)から約200年にわたって豊前有数の豪商として栄えた。その屋敷は長峡(ながお)川のほとり、中津街道と田川街道の交差点一帯にあった。今も藩主がくぐった御成門が残る。
長峡川河口(ながおがわかこう)
長峡川(ながおがわ)河口は、かつて豊前の国内では有数の港としての役割を果たした。川の両岸、行事村や大橋村には小倉藩の御蔵所や在郷商人の浜倉が並んでいた。
旧百三十銀行行橋支店(きゅうひゃくさんじゅうぎんこうゆくはししてん)
大正3(1914)年11月に百三十銀行行橋支店として建てられた煉瓦造りの建物である。東京駅や日本銀行本店を手がけた辰野金吾の主宰する辰野・片岡事務所が監督し、清水組(現清水建設)が設計施工した。銀行の内部はカウンターや応接室、金庫室が残り、現在は「行橋赤レンガ館」の愛称で市民ギャラリーとして利用されている。
大橋三叉路の道標(おおはしさんさろのどうひょう)
大橋中町商店街の三差路、山本ふとん店の前に道標がある。高さ50㎝ほど六角形の石には「南中津道 西小倉道 東今元道」と書かれている。
大橋太郎の碑(おおはしたろうのひ)
鎌倉時代、豊後の地頭だった大橋太郎が鎌倉に赴いた時、身に覚えない罪を着せられた。やがて疑いが晴れ、豊後に帰国の途中この地に着いた時、厚いもてなしを受け、この地が好きになり、家族を豊後から呼び寄た。これを知った豊後の人達がたくさんやって来てあたりの人口が増えた。大橋村の名は、大橋太郎が村を開いたことに由来するといわれている。
郡境標柱(ぐんさかいひょうちゅう)
郡境標柱は小笠原藩が藩内各地の郡境に建てたもので「御境石」といわれていた。高さ2m14㎝、幅24㎝である。「従是南仲津郡 従是北京都郡」と二面に刻字されている。小笠原文庫が所蔵している小倉藩の絵図に描かれた「大橋村之内御境石」はこの標柱である。
大橋正八幡神社(おおはししょうはちまんじんじゃ)
応神天皇、神功皇后、此売大神を祀る。寛永年間(1624~1644年)に、京都郡草野村の草野正八幡神社から分社して、仲津郡大橋、宮市、小部野の三村の産神として建立された。

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