岩槻宿いわつきしゅく(埼玉県さいたま市岩槻区)

岩槻宿の本陣・脇本陣は、久保宿に各1軒、旅籠10軒あった。
問屋業は毎月1日~18日までは市宿町が勤め、19日~晦日までは久保宿町が勤めた。

≫大門~岩槻を歩く

西光寺(さいこうじ)
国道122号線児童センター入口交差点を20mほど過ぎた右手に、西光寺へ続く入口がある。幅約3mの道の先にあるため見落としやすい。門を通ると左手に六地蔵が祀られ、右手には墓所が広がる。その脇には大きな木がそびえ立っている。本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代後期(約800年前)行基の作で、埼玉県指定有形文化財に指定されている。
八雲神社(やくもじんじゃ)
国道122号線本町一丁目交差点を過ぎた左手に八雲神社の鳥居がある。日光御成道を挟んで向かいが、元岩槻警察署の岩槻郷土資料館。江戸時代は牛頭天王社と称され、明治時代になり八雲神社と改称された。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。現在の社殿は明治17年の落成で、同21年に現在地に移設。境内は緑の広場として、子供や市民から親しまれている。
岩槻郷土資料館(いわつききょうどしりょうかん)
昭和5(1930)年に岩槻警察署の庁舎として建てられ、昭和57年に郷土資料館として開館。天井の梁や窓に見られるアーチ状の造形やアールデコ調の装飾が随所に施され、警察署庁舎としての機能性と装飾を一体化したデザイン。落成当時、旧岩槻市域で初めての鉄筋コンクリート製の建築物だった。常設展示は「岩槻のあゆみ」、「大昔のくらし」「くらしの道具」の三つ。
芳林寺(ほうりんじ)
太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられる。資正の嫡男・太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々のご先祖の御霊を供養している由緒ある禅寺。
岩槻藩高札場(いわつきはんこうさつば)
高札場とは現在の官報掲示板のことで、幕府が庶民に対し禁制や法度などを示したもの。人々が集まる道筋、舟乗場の橋のたもと、そして宿場などには必ず高札場が設けられた。元はこの場所ではなかったが、八百屋「安兵衛」前に復元されている。
岩槻宿本陣跡(いわつきしゅくほんじんあと)
岩槻宿は、この街道沿いの町屋の中にあり、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠10軒を有していた。現在、岩槻宿本陣があった場所には、埼玉県信用金庫がある。当時の面影を取り戻そうと地元商店街の人々が中心となり策定した「市宿通りまちづくり規範」により、景観こそ損なわない造りになっているが、当時の面影はない。ちなみに脇本陣跡は現在、駐車場となっている。
新成寺(しんせいじ)
日光御成道は、岩槻駅前から伸びる県道324号線と交差する。その岩槻駅入口交差点を右折し、最初の信号でさらに右折すると左手に新成寺が見える。本堂は新しく、木の温もりが感じられる。裏手には、広大な墓所が広がり、ペット霊園も備えている。
旧家(きゅうけ)
岩槻駅入口交差点を通過すると、左手に旧家が見える。現在は自転車店「サイクルビレッジ内藤分店」。この辺りは「市宿通りまちづくり規範」区域であり、城下町であったことを感じさせる建物や旧家が目立つ。また岩槻には、街道沿いの名所への案内板などが多く設置され、街全体で城下町の佇まいを残すことに取り組んでいるのが窺える。
岩槻藩遷喬館(いわつきはんせんきょうかん)
寛政11(1799)年に岩槻藩士で儒学者・児玉南柯が青少年の教育のために創立した家塾で、のちに藩校となった。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」、築山・池泉、展望台などが設けられた。県内において保存されている藩校はここが唯一のもので、埼玉県の文化財(史跡)に指定されている。
願生寺(がんしょうじ)
茅葺き屋根造りで、昔の佇まいを今に残そうとする“岩槻らしさ”が窺える。願生寺には、さいたま市指定有形文化財の「阿弥陀三尊図像月待供養板碑」が残されている。鎌倉時代から室町時代にかけて墓塔、供養塔として建てられたもので、「月待供養」の板碑であったと考えられている。さいたま市は、県内でも月待信仰が盛んな地域であったと言われている。
一里塚跡(いちりつかあと)
日光御成道が通る岩槻には、笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原の三カ所に一里塚が設けられた。そのうちの一つ、岩槻城下久保宿の一里塚は、現在の岩槻区役所前の辺りにあった。現在では、区役所の敷地の片隅に一里塚を表す石碑が設けられ、傍らには一里塚に多く見られる樹種・榎が植えられている。
大龍寺(だいりゅうじ)
岩槻区役所の向かいに寺へと続く入口がある。街道沿いには、六地蔵や馬頭観音が祀られている。さらに進むと、鮮やかな緑を付けた木々、その奥には山門が見える。比較的新しい山門の手前で、頭上にある見事な彫刻に驚かされる。正面に本堂があり、そこにも荘厳な雰囲気を漂わせる彫刻があしらわれている。岩槻の人形作りの元祖・橋本重兵衛の墓がある。
時の鐘(ときのかね)
岩槻城の鐘楼で、寛文11(1671)年当時の岩槻城主阿部正春が渋江口に設置した。鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせ続けた。50年後の享保5(1720)年、鐘にヒビが入っているのが見つかり、城主・永井直信が改鋳したものが現在の鐘。鐘楼は嘉永6(1853)年、岩槻藩により改建されており、方13.1m、高さ2.1mの塚の上に建っている。

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