佐屋宿さやしゅく(愛知県愛西市)
- 水鶏塚(くいなつか)
- 水鶏塚は、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)5月に佐屋の門人、山田庄佐衛門邸に泊まったときに残した句碑が建てられている。句碑は享保20年(1735年)に建てられ次のように刻まれている。『水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り』
- 道標(どうひょう)
- 東海道佐屋路はこの佐屋宿より舟にて桑名へ渡った。寛永11年佐屋宿創設より、明治5年に至る長い年月であった。この道標は舟場への道を示すものである。大字佐屋の山田秀信氏の屋敷内にあったものを同氏の好意により寄附を受け此処に建てた。
- きこくの生垣(きこくのいけがき)
- 江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠(近江屋)があった。現在、このブロック塀上に見える「きこくの生け垣」は天保12年(1841年)の「尾張名所図会」に描かれている。
- 佐屋代官所跡(さやだいかんしょあと)
- 佐屋はその昔、慶長20年4月家康が大坂夏の陣にここから船出し、大勝した徳川方吉祥の地である。藩祖義直もこの事を嘉し寛永11年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応2年船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるに至った。そのため元禄8年奉行所が、ついで天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄、寛永文久と、二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。その後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物もそれを知る人もない。
≫桑名宿へ行く
佐屋路が確立すると、桑名へ向けた3里の渡しを擁する佐屋には本陣2軒、脇本陣1軒、脇本陣格1軒(非公式)が設けられた。最盛期には旅籠が31軒建ち並んでいた佐屋は、単独の村ではなく外佐屋村内佐屋地区、依田、須賀村と3村共立の宿場であった。
≫神守~佐屋を歩く