鳴海宿なるみしゅく(愛知県名古屋市)
- 平部町常夜灯(ひらぶまちじょうやとう)
- 鳴海宿の東の入口である、平部町に建てられたものである。
表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。
大きく華麗な常夜燈であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影を偲ぶことができる。
- 瑞泉寺(ずいせんじ)
- 龍蟠山と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。20世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦5年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。
- 円龍寺(えんりゅうじ)
- 当寺は、今より約七百有余年前、現在の砦絶頂地と言われて居る所に、奈良の法隆寺に匹敵する七堂伽藍が既に建てられており、元来天台宗善正寺と号し、壮大で名高い寺である。現在の善照寺砦の墓地は、その時の寺の墓地であり、現存の先祖佛はその天台宗の時の佛像である。
- 鳴海城跡(なるみじょうあと)
- 根古屋城ともいい、応永年中(1394~)安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。「尾張志」は東西75間、南北34間で4面に堀跡、本丸と、1.3之丸にも堀を残すと記している。
- 鳴海宿本陣跡(なるみじゅくほんじんあと)
- 鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天宝14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、2軒あった。
- 丹下町常夜燈(たんげまちじょうやとう)
- 鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯である。
表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
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鳴海宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒があった。
宿の東と西に常夜灯が両方残されており、宿場町が約1.5㎞渡っていたことが分かる。
また、鳴海宿には鳴海城(別名:根古屋城)があった。1394~1428年(応永年間)に安原宗範が築城したもので、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いでは、今川義元軍の武将岡部元信が、この城で織田軍と戦った。その後、織田信長の手に渡り1590年(天正18年)に廃城となってしまった。
≫池鯉鮒~鳴海を歩く