平塚宿ひらつかしゅく(神奈川県平塚市)

平塚宿は、慶長6年(1601)に、東海道の整備とともに設定された。
慶安4年(1651年)には、八幡村の一部が八幡新宿として平塚宿の加宿となり、明暦元年(1655年)に平塚新宿と改称した。

≫藤沢~平塚を歩く

平塚宿脇本陣跡(ひらつかしゅくわきほんじんあと)
脇本陣(わきほんじん)は、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用された。それ以外の時は一般旅客の宿泊にも供した。
高札場跡(こうさつばあと)
高札場とは、幕府や領主の基本的な法令を書いた高札(木の札)を掲示した場所。主に道が交差した人の往来の多いところや、人に目立つように一段高くした「高札場」に掲示された。
東組問屋場跡(ひがしぐみといやばあと)
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。
平塚本陣跡(ひらつかほんじんあと)
天保14年(1843)当時、建坪163坪だった。総ケヤキ造りの豪華なものだったと伝えられるが、現在は、標識が立つのみである。
西組問屋場跡(にしぐみといやばあと)
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といった。
要法寺(ようほうじ)
松雲山要法寺という日蓮宗の寺院。 鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知(ひらつかさえもんのじょうやすとも)といった。弘安5年(1282)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は、9月18日に平塚に到着し泰知邸に一泊した。この宗祖の霊跡に建立されたのが要法寺になる。境内には、宗派の鎮守神を祀る七面社や、日蓮に帰依し要法寺の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがある。
平塚の塚(ひらつかのつか)
桓武天皇の孫、高見王の子である平政子(たいらのまさこ)がここで没したため、ここに塚を築いて弔った。そのため平塚は、もとは「たいらつか」と呼ばれていた。
上方見附跡(かみがたみつけあと)
東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み見附(みつけ)と呼ばれる構造物があった。一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを上方見附と呼んでいた。この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲である。

≫大磯宿へ行く

平塚宿 平塚宿脇本陣跡 高札場跡 東組問屋場跡 平塚本陣跡 西組問屋場跡 要法寺 平塚の塚 上方見附跡

前の名所:江戸見附跡