実際に「歩いて」「走って」集めた『人力』旧街道紹介サイト
東の見付跡を過ぎると、関川神社にたどり着く。ここには常夜燈が残っている。
交差点の角(御油保育園側)に高札場跡であった案内板が掲示されている。高札場跡は現在は、広場となっている。
さらに進んでいくと、今度は右手に問屋場跡の案内板がある。(電柱と並ぶように設置されているため、わかりにくい。)
また、旧街道を挟んで向かい側には、本陣跡がある。(案内板あり。現在は、民家となっている。)
問屋場の左には、広場があり、宝永8年(1711)当時の町並みを記した図と高札場を再現したモニュメントがある。これを鑑賞することで往時の雰囲気がより一層味わえる。
問屋場跡を過ぎ、さらに旧東海道を進むと、右手に尾崎屋(築200年)、もう少し進んだところには大橋屋(築300年)と往時の軒が残る。
大橋屋は、南北朝時代から続く旅籠で、敷地内にある灯篭は当時のものが現在も残る。
現存する建物は江戸時代のもので300年が経過している。
※江戸時代に大火があり全て燃えてしまったが、江戸幕府の支援で宿を再建した。その際に、建物は長屋作りとなった。
歌川広重が大橋屋の女中部屋から見える風景を東海道五十三次に残している。
歌川広重が絵を描いた頃は、中庭に灯篭とソテツがあった。
ソテツは現在では浄泉寺内に移動され今も現存している。
大橋屋から100Mほど先に進むと、左側に音羽図書館の入り口があり、向かいに赤坂陣屋跡の案内板がある。
赤坂宿で歴史に触れ、情緒を感じながら次の宿場、藤川宿へと更に歩みを進める。
さて、藤川宿はどんな雰囲気なのだろうか。
江戸から数えて三十六番目の宿場町となる赤坂宿。
元々、御油宿と赤坂宿は「赤坂御位」という大きな宿場で最大で80の旅籠が軒を連ねていた。
東海道の中でも非常に大きな宿場町であったため、五街道整備の際に徳川家康の命により赤坂御位の中央に松を植え赤坂宿と御油宿という2つの宿場に分けられた。
宿場を分けたことで、大名行列は京から江戸に向かう際は赤坂を利用し、日本橋から京に向かう際は御油を利用するというルールが存在した。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と言われた程、活気のある宿場町であった。
≫御油~赤坂を歩く