舞坂宿まいさか(静岡県浜松市)

舞坂宿は、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であった。
舞坂宿の本陣跡は標識だけだが、修理して復元された「脇本陣茗荷屋(みょうがや)」が存在している。

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見付石垣(みつけいしがき)
舞坂宿の東のはずれに位置している。見付は見張所にあたり、大名が通行する際には、番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持に当たったという。
舞坂一里塚と常夜燈(まいさかいちりつかとじょうやとう)
【舞坂一里塚】
江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604年)とされる。天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。
しかし、古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末の頃には榎の木が植っていたと解釈してよいだろう。 なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。
【常夜燈】
新町の常夜燈は正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年乙亥正月吉日を彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。
江戸時代の舞坂はよく火災に見舞われ、特に文化6年(1809年)には宿場の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜燈が建立されたもので、その世話は現在も地域の人たちに引き継がれている。
宝珠院(ほうじゅいん)
文化六年(1809年)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をした。火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、四年後の文化十年五月吉日にこの常夜灯が建立された。両皇太神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7メートルある。 なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってある。ちなみに、ここ宝珠院は、明治六年(1873年)舞阪町に初めて小学校が開かれた所である。
岐佐神社(きさじんじゃ)
平安時代に書かれた『延喜式神名帳』に、遠江国六十二座・敷智郡六座の一として記載されており千年以上の古社である。 明応七年(1498年)の地震津波では、浜名湖の湖口が切れて「今切」となり舞澤の郷は人家と共に水中に漂没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の古木の根本に、『岐佐大明神』の小神祠を見つけた住民は、社殿を建立して祀った。 これが現在の御鎮座の地である。 無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞阪町のもとをなした。これを三十六屋敷という。 天正二年(1574年)以来、数次の本殿・拝殿再建の棟札を保存している。 慶長六年(1610年)伊奈忠次公より御神領三石、慶安元年(1648年)徳川家光公より御朱印状により神領五石を奉献され、明治維新に至る。 明治六年(1873年)郷社に列し大正九年、神饌幣帛料供進指定社となる。 現在の社殿は大正元年の造営である。
舞坂本陣跡(まいさかほんじんあと)
この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の道中宿泊・休憩したところである。
舞坂脇本陣跡(まいさかわきほんじんあと)
舞坂宿は、慶長六年(1601年)の東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化二年(1845年)の資料では人口1204人・戸数265戸であった。 また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)があった。 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われた。 建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口五間・奥行十五間あった。 現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物である。 平成七年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838年)の建築であることが判明した。
常夜燈(じょうやとう )
舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化十年に建立されたことが分かる。
舞坂宿では文化6年(1809年)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。
本雁木跡(ほんがんげあと)
江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。
北雁木(きたがんげ)
ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(1657年)から寛文元年(1616年)にかけて構築された。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されている。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものである。 雁木とは階段状になっている船着場のことをいうが、地元では「がんげ」と昔からいっている。 舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれている。 この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18メートル)の石畳が水際まで敷きつめられている。
弁天神社(べんてんじんじゃ)
昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑がある。
浜名湖(はまなこ)
一般的に、かつては古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。ただし、国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。この時代は、琵琶湖より遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった。 しかし、明応7年(1498年)に起きた大地震に伴う地盤沈下により湖面が下がり海水が流入しやすくなり、その後の度重なる暴風雨による土砂災害のために浜名湖から流れ出ていた川が埋まり、浜名湖に水が溜まるようになった。 その結果、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分が決壊し現在のような汽水湖となった。この時、決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。 この今切の渡し(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、鉄橋や道路なども通り安全に往来できるようになっている。

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前の名所:波小僧