吉原宿よしわらしゅく(静岡県富士市)

吉原宿は、もともと駿河湾に近い位置にあったのだが、高波などの被害により内陸へと移動して行き、最終的に和田川の西側付近が中心となった。
源平の戦いで有名な「富士川の合戦」が繰り広げられた場所として、名称や碑が残っている。
現在、本陣や脇本陣があった辺りは商店街となっているが、創業天和2年(1682)の老舗「鯛屋旅館」には、山岡鉄舟の筆による屋号などが保存されている。

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左富士神社(ひだりふじじんじゃ)
左富士神社の創建は1796年(寛政8年)で、もともとの社名は古くは、「悪王子社」だった。のちに「悪王子神社」と称していたが、1908年(明治41年〉に現在の「左富士神社」と改めた。  この神社は霊験高く祈願成就するといわれている。地元の人々の話では幾多の戦争勃発時には出征兵士の武運長久を祈願する人々が絶えなかったといわれている。また、先の戦争では地元からの出征兵士は50人位いたそうですが、戦死した兵士は数人だったそうだ。  東海道を江戸から京に上るときは、富士山はいつも進行右側に見えるが、この地では街道が逆行するような形になっているために左側に見えるので、「左富士」といわれている。とても珍しいために街道の名勝となっている。この地以外では茅ヶ崎にある「南湖の左富士」がある。
左富士の碑(ひだりふじのひ)
江戸から京都へ向かうと、富士山は常に右側に見えるのだが、この地点だけは左側に富士を望むことができたため、左富士と名づけられた名所。道路整備が進んだ現代においても、この道筋はしっかりと残されている。
平家越えの碑(へいけごえのひ)
この辺り一帯は1180年(治承4年)、富士川の戦いで平家軍が陣を構えたところである。源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち、敗走したといわれている。この故事に因み、和田川の辺に1924年(大正13年)に平家越の碑が建てられた。
上方見附(かみがたみつけ)
東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み、見附(みつけ)と呼ばれる構造物があった。一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを上方見附と呼んでいた。この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲となった。

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吉原宿 左富士神社 左富士の碑 平家越えの碑 上方見附

前の名所:妙法寺