戸塚宿とつかしゅく(神奈川県横浜市)

早朝に日本橋を出た旅人は、ここ戸塚で最初に宿を取るのが通例で、大いに賑わったという。当初、保土ヶ谷と藤沢の間には宿場は無かったのだが、区間距離が長いことに加え、権太坂、大坂といった難所もあったことから、慶長9年(1604)に、他の宿場からやや遅れて宿場として成立した。

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吉田大橋(よしだおおはし)
吉田大橋は歌川広重によって、東海道五十三次絵の戸塚「元町別道」に描かれている。絵中の橋のたもとに描かれている「左かまくら道」の道標が妙秀寺境内に保存されている。
善了寺(ぜんりょうじ)
古くは、真言宗で和泉村(現在正法寺のあるところ)に在ったが、天福元年(1233年)(親鸞聖人60歳の時)江戸麻布・善福寺の釈了海の弟子であった釈了全により、浄土真宗に改められた。その後、領主の強制によって浄土宗に改宗を命ぜられ、大部分の檀家は改宗したが篤信の門徒によって細々と維持された。
清源院(せいげんいん)
清源院は、京都の総本山知恩院の末寺で、南向山長林寺と称する。源頼朝の家臣・安達籐九郎盛長の一族で長林なにがしの草創と伝えられ、元は、獅子王山長円寺と称していたが、戦国時代以来、廃絶していた。その後、徳川家康の側女・お万の方によって、元和6年(1620)に開基さた。お万の方は、元和元年、四十余歳で家康の許を辞し、彦坂小刑部元正(ひこさかこびょうぶもとまさ)に預けられ、岡津の草庵(現在の西林寺といわれている)に閑居していた。
戸塚宿澤邊本陣跡(とつかしゅくさわべほんじんあと)
戸塚には本陣が2軒あり、それぞれ、内田家と澤邊(さわべ)家がつとめた。澤邊家には、現在標柱と説明板があり、近くには明治天皇戸塚行在所阯の碑がある。なお、裏手は今も澤邊家の住居である。
八坂神社(やさかじんじゃ)
八坂神社では、毎年7月14日にお札まきが行われる。お札まきは、女装した10人の男性が歌いながら町内を歩き、5色のお札をウチワであおって舞わせるというもの。横浜市指定無形民俗文化財になっている。
冨塚八幡宮(とみづかはちまんぐう)
戸塚の鎮守。平安時代、前九年の役平定のため源頼義、義家親子が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を受け、その加護により戦功を立てる事ができたのに感謝をして造営された古社。社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられている。 また、松尾芭蕉の句「鎌倉を生きて出でけむ初松魚」の句碑が残されている。
戸塚宿上方見附跡(とつかしゅくかみがたみつけあと)
東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み、見附と呼ばれる構造物があった。一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを上方見附と呼んでいた。この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲であり、戸塚宿の上方見附には、左右一対になった石垣が残っている。

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戸塚宿 吉田大橋 善了寺 清源院 戸塚宿澤邊本陣跡 八坂神社 冨塚八幡宮 戸塚宿上方見附跡