新居宿あらいしゅく(静岡県湖西市)

新居宿は、本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠26軒であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後に新居関所が設けられ、翌年に新居宿が設置された。現在の地に移るまでに、天災で2度移転している。

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紀伊国屋(きのくにや)
新居宿旅籠紀伊国屋は、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁により正徳6年(享保元年1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業を続けた。明治7年(1874)に大火により焼失、直後に建て替えられ明治30年まで旅館業を営んだ。 建物は江戸後期の旅籠の様式を随所に残しており、平成13年整備事業を実施し、往時の雰囲気を残す内部には宿場文化を伝える資料を展示している。
飯田本陣跡(いいだほんじんあと)
飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え玄関を備えていた。 飯田本陣には小浜、桑名、岸和田播など約七十家が利用した。 明治元年(1868年)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治十一年(1878年)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治十八年(1885年)、奥山方広寺に移築された。
疋田本陣跡(ひきだほんじんあと)
飯田本陣の南隣りにあった。 天保年間の記録によると、建坪百九十三坪で門構え、玄関を備えていた。 八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。 庄屋、年寄役なども務めた。
本果寺(ほんがじ)
もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。 宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。 徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。 俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成十二年一字一石経の経塚に、「あけぼのの鐘」が建立された。
神宮禅寺(じんぐうぜんじ)
寺名が示す通り、神仏混合時代の名残を残した寺であり、応永二年(1395年)に人皇九十五代後醍醐天皇、第十一番目の皇子聖鑑国師の法脈を直傳した、悦翁大園真覚禅師によって開山され、古くから子育てと安産の観音様と親しまれた観音様の祭られている観音堂。江戸時代の忠臣蔵に出てくる人物で有名な、土屋主税の建立した関所稲荷、東海道で通行の旅人の安全を見守っていた鯖弘法大師、等歴史のロマンを感じさせてくれるお寺である。
諏訪神社(すわじんじゃ)
式内は景行天皇十九年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(1708年)現在地に遷座となる。 現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。
常夜燈(じょうやとう)
秋葉信仰が盛んで、各村や町には必ず秋葉灯籠が建てられ、常夜灯として絶やすことなく火が焚かれた。
一里塚跡(いちりつかあと)
一里塚は、江戸の日本橋を基点として街道の両側に一里(4㎞)ごとに土を盛り、その上に榎などを植えた塚。 里程の目印として、旅行者にとっては馬や駕篭代の計算などの目安となった。 慶長九年(1604年)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では百四ヶ所あった。 ここには左(東)に榎、右(西)に松が植えてあった。
棒鼻跡(ぼうばなあと)
ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。 棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

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前の名所:新居関所跡