桑名宿くわなしゅく(三重県桑名市)

桑名宿は、長良川の河口部にあり、南は伊勢湾に面しているため、中世以来港湾都市として発展した。美濃の幕領からの年貢米をはじめ、移出物資の多くは桑名湊から江戸へと送られた。

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六華苑(ろっかえん)
六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として、大正2年に竣工した。苑内は、鹿鳴館を設計した外国人ジョサイア・コンドルの設計による木造洋館を中心として、和館とその前庭の池泉回遊式庭園などがある。第二次世界対戦による被害を受け、一時期桑名税務署の仮庁舎、その後諸戸家の事務所として使用された。和洋の様式が調和した明治、大正初期を代表する建物である洋館・和館は、「旧諸戸家住宅」として、平成9年12月、国の重要文化財(建造物)に指定された。
大塚本陣跡(おおつかほんじんあと)
大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業している。
桑名宿脇本陣跡(くわなしゅくわきほんじんあと)
脇本陣(本陣に準じる宿)は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は、料理旅館「山月」の一部となっている。
七里の渡跡(しちりのわたしあと)
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれた。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられた。 また、七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、南側には舟会所、人馬問屋や丹波本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えた。
桑名城址(くわなじょうあと)
桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができた。天守閣は四重六層の勇壮なものであったが元禄十四年(1701)の大火で消失し、以後は再建されなかった。門や櫓の数は多く、享和三年(1803)の記録には本門や路地門などを合わせて六十三ヵ所、櫓は九十五ヵ所とある。
光徳寺(こうとくじ)
浄土宗。古くは泡州崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山墓(1718~1777)は桑名船場町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓がある。
十念寺(じゅうねんじ)
浄土宗。古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に、現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として当麻曼茶羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。
天武天皇社(てんむてんのうしゃ)
壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された神社。古くは新屋敷の地にあったといわれるが、寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に転移。のち鍋屋町北側の現在地に移る。市指定文化財として固山備前介藤原宗次銘の刀がある。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。

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桑名宿 六華苑 大塚本陣跡 桑名宿脇本陣跡 七里の渡跡 桑名城址 光徳寺 十念寺 天武天皇社

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