宮宿みやしゅく(愛知県名古屋市)

宮宿は、熱田神宮の門前に古くから開けていた町を母体として整備された宿場町である。
門前町として多くの参拝客を集めた一方、桑名宿への船渡し場として、また徳川御三家の尾張徳川家の御城下・名古屋の表口として栄えた。その繁栄ぶりは東海道随一とも謳われたほどであった。

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熱田神宮(あつたじんぐう)
熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代、日本武尊は神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなった。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣を熱田の地にお祀りした。以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮である。境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70以上行われている。
上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)
「上知我麻神社」は、宮簀媛命の父君である尾張国造「乎止與命(おとよのみこと)」を祀り、「源大夫社(げんだゆうしゃ)」とも呼ばれた。延喜式神名帳に記載された古社である。元々「ほうろく地蔵」附近にあって、その脇は高札場になっていた。東海道・佐屋路・美濃路を旅する者はいずれも必ず源太夫社の前を通ったため、皆ここで旅の安全を祈願してから、各々の道へ進んだといわれている。今では熱田神宮境内に遷座されている。
林桐葉宅跡(はやしとうようたくあと)
林桐葉は熱田の郷士で、貞亨元年(一六八四)冬、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、自宅に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足(しもさとちそく)を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。『熱田三歌仙』もここで巻かれている。
里程標(りていひょう)
江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点であり、この道標の位置は建立当寺のままである。この三叉路の北東隅には、これより三二年前(宝暦八年)に建立された道標があった。
ほうろく地蔵(ほうろくじぞう)
「尾張名所図会」によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現、知立市)にあったが、野原の中に倒れ捨石のようになっていた。三河より焙烙を売りに尾張に来るものが、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、、ここで焙烙を売りつくしたた後、海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。
丹羽家住宅(にわけじゅうたく)
丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯箱が残されている。正面の破風付玄関は、かつての格式の高さを残している。天保十二年(一八四一)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家と思われる旅籠が描かれている。名古屋市有形文化財に指定されている。
七里の渡し場(しちりのわたしば)
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の船着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は旅行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残をとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。

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前の名所:裁断橋跡