小田原宿おだわらしゅく(神奈川県小田原市)

北条氏の城下町「小田原」は、日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した。
天下の嶮「箱根山」を越えるために、ここで泊まらざるを得なかったのである。
そのため、本陣4件、脇本陣4件、旅籠95件と、規模も東海道で最大級で大変賑わっていた。

≫大磯~小田原を歩く

山王原一里塚(さんのうはらいちりつか)
日本橋から20番目の一里塚。
清水金左衛門本陣跡(しみずきんざえもんほんじんあと)
明治天皇宮ノ前行在所跡があり、江戸時代には小田原宿本陣筆頭の清水金左衛門衛門家があった。
なりわい交流館(なりわいこうりゅうかん)
関東大震災(大正12年)により被害を受けた建物を、昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである「出桁(だしげた)造り」という建築方法が用いられている。また、2階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出している。内部の意匠も特徴的で、特に2階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れているなど、当時の小田原の時代背景を感じさせる貴重な建物。
ういろう(ういろう)
八棟造の建物で北条早雲に招かれた京都外郎家の子孫宇野藤右衛門定治の住居として大永3年(1523)建てられた。京都外郎家は元の礼部員外郎を勤めていた陳宗敬の子宗奇が故国に伝わる薬の霊宝丹を製造販売したのが始まりで、天皇より透頂香の名を賜ったが人々には外郎と呼ばれていた。現在は菓子を中心に販売し、平成17年店奥の明治18年築の蔵を利用して外郎博物館を開設した。
小田原城(おだわらじょう)
戦国期の北条氏の居城。江戸時代には、大久保氏をはじめ、様々な藩主たちが歴任した。
現在残っている天守閣は、大久保氏の時代に造られたものである。
天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたもので、古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。
現在の天守閣は、昭和35年(1960年)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したもの。
報徳二宮神社(ほうとくにのみやじんじゃ)
明治27年(1894年)二宮尊徳を祭神として創建。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築。拝殿礎石は天保の大飢饉の際、尊徳が城内の米蔵を開き領内一人も餓死者を出さなかった。
居神神社(いがみじんじゃ)
三浦荒次郎義意の霊と木花咲耶姫命、火加真土神を祀っている。
小田原城主大森藤頼が北条早雲に攻められ逃亡し、三浦半島の豪族三浦義同がかくまったため、北条氏に攻められた三浦氏は永正13年(1516年)滅びた。
義同の嫡子で75人力といわれた義意も油壷で自刃したが、首はこの地の松の枝まで飛来し3年間通行人を睨み殺したため、阿育王山総世寺の忠室和尚が来て歌を詠むと「われ今より当所の守り神にならん」と成仏し、松の下に祠を建てたのが神社の起こり。
大久寺(だいきゅうじ)
天正18年(1590年)江戸時代の初代城主、大久保忠世が遠州二俣から日英を開山として招き開基した。石垣山城三ノ丸跡に建立した大久保氏の菩提寺。
上方見附跡(かみがたみつけあと)
東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み見附(みつけ)と呼ばれる構造物があった。一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを上方見附と呼んでいた。この江戸見附と上方見附の間が宿場の範囲である。

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前の名所:江戸口見附跡