江尻宿えじりしゅく(静岡県静岡市)

戦国期に武田氏によって築城された江尻城は、かつては小芝(おしば)城ともよばれた。江戸時代には、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒と、駿河では「府中」に次ぐ2番目の規模の宿場であった。

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東木戸跡(ひがしきどあと)
江尻宿東端の出入口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近には道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。
魚町稲荷神社(うおまちいなりじんじゃ)
永禄11年(1568年)12月、駿河に攻め入った武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地に江尻城を築き、その後天正6年(1578年)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城とした。
梅雪は、一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って、この地に社殿を造営したと言われている。
稚児橋(ちごばし)
慶長16年(1611年)9月、家康公の命令でここに橋が架けられた。渡り初めで、一番年老いた夫婦が先頭を歩いていたが、巴川より童子が突然現れて橋の上を駿府の方角に歩き去ったという。このためこの橋を稚児橋というようになった。これは河童の類といわれている。
船高札(ふなこうさつ)
江戸時代初頭、河川交通の重要巴河畔に、現在の掲示板にあたる「船御高札」が建てられていた。
その内容には、暴風などに遭っている船には助け船を出すことや、船が破損したときには力を合わせて荷を引き上げること(引き上げてもらったものは褒美を渡すこと)などが書かれていた。

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