実際に「歩いて」「走って」集めた『人力』旧街道紹介サイト
慶長6年(1601年)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し江尻宿場を制定し、江尻宿が設置された。同9年(1604年)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行にし任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612年)完成したと伝えられている。 元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられている。 当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。現在は、植樹されたものである。
≫興津~江尻を歩く
慶長6年(1601年)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し江尻宿場を制定し、江尻宿が設置された。同9年(1604年)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行にし任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612年)完成したと伝えられている。
元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられている。
当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。現在は、植樹されたものである。
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