亀山宿かめやましゅく(三重県亀山市)

亀山は江戸中期以後は、石川氏6万石の城下町であった。しかし、6万石の城下町としては町の規模が小さく、宿場町としてもそれほど大きくはなかった。

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江戸口門跡(えどぐちもんあと)
延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
亀山城跡(かめやまじょうあと)
伊勢亀山城は、文永二年(1265)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については、『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されている。寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。亀山城の別名については唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城」と記されている。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる。明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、塀の一部が残されているに過ぎない。
京口門跡(きょうぐちもんあと)
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門と謡われるほどであった。

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前の名所:能褒野神社