水口宿みなくちしゅく(滋賀県甲賀市)

水口宿は、天正13年(1585)の水口岡山城築城の際に形成された城下町として、江戸時代には東海道を中心とした特徴的な「三筋街」として発展した。

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東見付跡 (ひがしみつけあと)
水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた。
水口宿本陣跡(みなくちしゅくほんじんあと)
本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門、玄関、書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたっていた。水口宿本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものだったが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去された。
問屋場跡(といやばあと)
問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意していた。水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたっていた。
大岡寺(おおおかじ)
白鳳十四年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置し創建したといわれている。その後寺勢盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられるが、天正二年(1574)の兵火で、堂字はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなっている。
大徳寺(だいとくじ)
大徳寺と徳川家康の縁は深く、開山の栄誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し、家康の家の字と松平の松の字をとって家松山の山号を賜り、また第二栄誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進している。
水口城跡(みなくちじょうあと)
水口城は寛永十一年(1634)三代将軍家光の上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館として築かれた。城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられている。その建物構成は京都二条城に共通し、数奇をこらしたものであった。
林口の一里塚跡(はやしぐちのいちりつかあと)
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。なお、現在の一里塚は往時を偲んで修景整備されたものである。

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水口宿 東見付跡 水口宿本陣跡 問屋場跡 大岡寺 大徳寺 水口城跡 林口の一里塚跡

前の名所:岩神社