実際に「歩いて」「走って」集めた『人力』旧街道紹介サイト
赤甫は待花園月坡と号し、通称才一と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嶬峨上田村の宍戸露洲につき教えを請うたが、晩年家業を子に譲り、京都に上がり東福寺虚白につき、10年余り修行され、その間、京都大阪の諸大家と交わった、その後郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎を築かれている。俳著に「窓あかり」がある。 碑銘 「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」
≫土山~水口を歩く
赤甫は待花園月坡と号し、通称才一と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嶬峨上田村の宍戸露洲につき教えを請うたが、晩年家業を子に譲り、京都に上がり東福寺虚白につき、10年余り修行され、その間、京都大阪の諸大家と交わった、その後郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎を築かれている。俳著に「窓あかり」がある。
碑銘
「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」
≫土山~水口を歩く