蒲原宿かんばらしゅく(静岡県静岡市)
- 蒲原宿東木戸(かんばらしゅくひがしきど)
- 江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがあった。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいた。なお、木戸と木戸との間のことを「木戸内」という。東木戸は、わずかではありますが桝型になっている。
- 東木戸常夜灯(ひがしきどじょうやとう)
- 常夜灯とは、今でいう街頭にあたるもので、各所に設置し暗い夜道を明るく照らし続けていた。東木戸にある常夜灯には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていた。この常夜灯は文政13年(1831年)のものと考えられている。
- 渡邉家土蔵(三階文庫)(わたなべけどぞう(さんかいぶんこ))
- 渡邉家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家で、材木を商っていたことから「木屋(きや)」という商号で呼ばれていました。「渡邉家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具」(四方転び)という耐震性に優れた技法で建築されている。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から天保9年(1838年)2月21日に上棟したことがわかり、町内最古の土蔵であると考えられる。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されていて、平成13年8月29日、町指定有形文化財に指定された。
- 竜雲寺(りゅううんじ)
- 承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒した。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまった。当時の竜雲寺住職が、墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として保存されている。
- 正八幡神社(せいはちまんじんじゃ)
- この神社は御殿山南麓に鎮座しています。神社そのものの案内は無く、御祭神は誉田別命と思われる。
- 東漸寺(とうぜんじ)
- 元弘元年(1331年)開祖の日蓮宗の古刹。元は西より御殿屋敷付近にあったが、家光上洛時増改築のため現在地に移転した。本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となった。
- 佐藤家(さとうけ)
- 元「佐野屋」という商家で、壁は塗り壁で町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」という。「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請ともいわれている。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられている。なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とがあいまって、重厚感があふれている。
- 八坂神社(やさかじんじゃ)
- この神社は御殿山南麓に鎮座している。この神社の案内は無く、御祭神は素戔嗚尊と思われる。ここは、蒲原で有名な花見の名所でもある。
- 問屋場(といやば)
- 問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折りの馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月15日交代で詰めて宿の経営にあたっていた。
- 夜之雪記念碑(よるのゆききねんひ)
- 歌川(安藤)広重は、東海道五十三次の旅で、スケッチや印象をもとに五十五図の錦絵に製作したものが、保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物”と称され、最高傑作と言われている。
- 鈴木家(すずきけ)
- 江戸時代「和泉屋(いずみや)」という上旅籠だった。天保年間(1830~44年)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。弘化2年(1845年)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の2軒に仕切られている。
- 平岡本陣跡(ひらおかほんじんあと)
- 当時のままの土蔵や、大名駕籠(かご)をおろしたお駕籠石が残っている。黒々とした塀と、屋根瓦の「本」の文字が、歴史を感じさせる。
- 磯部家(いそべけ)
- 明治42年建築で、2階の手作りのガラスは国内生産が明治40年であることを考えると、とても貴重な逸品である。また木材は全てケヤキ造りである。
- 高札場跡(こうさつばあと)
- 高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれた。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていた。聖徳元年(1711年)に出された御高札が有名で①伝馬に関する定②忠孝を奨励する定③毒薬や贋金銀売買禁止の定④切支丹宗門禁制の定⑤火付(放火)重罪の定が墨書されてかかげられていた。また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられた。
- 若宮神社(わかみやじんじゃ)
- この神社は御殿山南西麓に鎮座している。神社手前の一般道に明神灯籠と鳥居が建ち、神社入口には靖国鳥居が建立されている。境内に入ると尾立狛犬がいて、その後ろの石垣が組まれた上に拝殿が造営されている。拝殿裏の本殿へ登る石段下には建立年代不明の岡崎現代型狛犬がおり、急な長い石段を登った上にはもう一対建立年代不明の岡崎現代型狛犬と、玉垣内に唐破風付きで彫刻の施された本殿が造営されている。
- 旧五十嵐歯科医院(きゅういがらししかいいん)
- 五十嵐準氏が地元蒲原に歯科を開業するにあたり大正3年(1914)に建てた病院併用住宅。1階は家族のプライベート用に、2階は診察室や待合室として使用されていたという。
- 西木戸(にしきど)
- 蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていた。もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699年)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる地に移動した。この西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこった。承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし、最期に追っ手に見つかり殺されてしまった。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養した。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されている。
≫由比宿へ行く
広重が描いた「蒲原夜之雪」の舞台だが、実際には温暖で雪はほとんど降らない。となりの由比宿とは町続きになっていた。
≫吉原~蒲原を歩く