興津宿おきつしゅく(静岡県静岡市)

身延道との分岐である。古代から交通の要衝として発達し、平安時代には清見ヶ関という関所が設けられていた。江戸時代における施設の数は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒である。

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一里塚跡(いちりづかあと)
江戸から41番目の一里塚。
理源寺(りげんじ)
開山は身延山久遠寺26世知見院日暹。江戸時代初期、疫病で多数の死者が出た。しかし、村の長が身延の七面山を信仰し難を逃れたことから、裏に流れる澤端川とその向こうの七面山を身延の春木川と七面山になぞらえ寺が建立された。
興津宿東本陣跡(おきつしゅくひがしほんじんあと)
興津宿には本陣が2軒あった。東本陣は、教敬山耀海寺を開いた市川法清を祖にもつ市川家がつとめた。延宝8年(1680年)興津宿の大火では、自分のところも焼けたというのに300両以上の大金を宿の人々に無利息で融通したという。
脇本陣水口屋跡(わきほんじんみなぐちやあと)
江戸時代には、水口屋は興津宿の脇本陣であり、明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、日本の政治経済の大物たちが数多く宿泊した。現在は、敷地内にある水口屋ギャラリーを開放している。
興津宿西本陣跡(おきつしゅくにしほんじんあと)
興津宿には本陣が2軒あり、西本陣は手塚家がつとめた。寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)まで東本陣の市川家と月番で営んでいた。
清見寺(せいけんじ)
約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃、東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、 清見関(きよみがせき)と呼ばれていた。そして、其の傍らに関所の鎮護として仏堂が建立された。この仏堂を以って清見寺の始めと伝えている。平安時代には天台宗の寺院であったと思われる。室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈った。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護した。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて清見寺に来り和歌などを詠じて清遊した。この時代、画僧雪舟も清見寺に来り後年富士・三保・清見寺の景色を画いている。徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けた。又、後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊した。家康公の三女静照院殿よりは、彿殿の本尊釋迦弁る。これら諸々の因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けるところとなった。
坐漁荘跡(ざぎょうそう)
西園寺公望公は嘉永2年(1849年)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人。坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919年)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵による。

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前の名所:身延道道標